回覧板が通過する、ビーコンの死角

──平成0x29A年08月15日 07:20

 八月十五日の朝は、バックヤードの業務用エアコンが止まっていた。

 汗が首筋を伝う。スマートグラスのフレーム内側が曇って、視界の右端に浮かぶ在庫アラートがにじんだ。レンズを拭いてかけ直すと、姉さんが「拭くより外せば」と耳元で言った。

 姉さん——正確には、四年前に事故で死んだ姉の人格エージェント。声だけはあの頃のまま、少しだけ鼻にかかる。

 俺は倉庫用品店「マルカワ」の朝番で、開店前のバックヤードにいる。ホームセンターとコンビニの中間みたいな店だ。棚には段ボール、文具、古い規格のブランクメディアが並んでいる。MOディスクだけは妙に回転が速い。月に四、五枚は出る。最近また増えた。

「なんで増えたんだっけ」
「回覧板」と姉さんが即答した。「紙の回覧板の添付記録媒体に指定されたでしょ、先月のドクトリン更新で」

 そうだった。内閣ユニットのどこかが承認した政策変更——地域間通信における物理媒体併用の義務化。要は、電子署名だけじゃ不安だから紙も回せ、ディスクも付けろ、ということらしい。アルゴリズムが半分割れてるんだから当然だろうと店長は言っていた。

 俺はスマートグラスの操作パネルをこめかみで二度タップし、入荷リストを開いた。画面がiモード風のメニュー画面になる。スクロールは目線追従なのに、表示は二〇〇三年のケータイサイトみたいだ。この違和感に、もう誰も何も言わない。

「あと、位置情報ビーコンの電池交換」と姉さんが言った。「昨日のシフト引き継ぎに書いてあったよ」

 バックヤードの天井隅に、拳大のビーコン端末がぶら下がっている。店内の人間と商品の位置を常時ブロードキャストしている装置だ。電池が切れると、従業員の行動ログに欠損が出る。欠損が出ると、内閣ユニットの労務監査で引っかかる。

 脚立を引きずり出して登った。天井に近づくと、埃の匂いの下にかすかな樹脂の焦げた匂い。

「……姉さん、これ」
「焦げてるね」

 ビーコンの筐体を外すと、裏面の基板が黒く変色していた。電池切れではない。物理的に死んでいる。

 つまり、昨日の夜から今朝にかけて、このバックヤードは位置情報の死角だった。

 俺は脚立の上で止まった。ちょうどその死角の時間帯に、店長が一人でバックヤードにいたはずだ。棚卸しをすると言っていた。

 壁際のスチール棚を見る。MOディスクの在庫箱。昨日は三列あった。今は二列。伝票を見る。売上記録、なし。

「店長さん、持ち出したのかな」と姉さんが静かに言った。

 MOディスク。紙の回覧板に添付する、あの記録媒体。ドクトリン署名が半壊している今、物理媒体に何を書き込んで回覧に紛れ込ませるかは——想像の範囲を超えない。超えないが、想像はできる。

 脚立を降りた。壊れたビーコンをカウンターに置いた。交換用の新品を袋から出して、天井に取り付けた。

 緑のLEDが点滅を始める。バックヤードの死角が、埋まった。

「報告する?」と姉さんが訊いた。

 俺は答えなかった。レジの電源を入れた。開店まであと十分。スマートグラスの右端に、今日の天気予報が流れた。晴れ、最高気温三十八度、午後から雷雨の可能性。

 表のシャッターを半分だけ上げると、アスファルトの熱気がバックヤードまで届いた。

 姉さんはもう何も言わなかった。ただ、スマートグラスの片隅で、小さな録音マークが——俺が触れていないのに——赤く点灯していた。