改札の息、白いインク

──平成0x29A年10月17日 07:20

平成0x29A年10月17日 07:20。

始発の折り返しを吐き出す高架の下で、私は駅務室の窓を開けた。朝の湿った鉄の匂いと、コーヒー自販機の甘い蒸気が混ざって入ってくる。ホームのユビキタスセンサー網が人流を数えて、改札の上の表示が「混雑:中」から「高」に変わった。

「今日は右端、反応が遅い」

耳の奥で、父の声がした。私のエージェント――故・和也。享年59、踏切事故。生前は駅の保線をやっていて、朝の音にうるさかった。

「わかってるよ。いま更新走らせる」

端末に触れる。平成エミュのまま残った青いiモードみたいなメニューの上に、AR広告がふわっと重なり、
〈今月の定期、サブスク化〉
と踊った。私はそれを指で追い払う。

改札制御の“記憶補助”――前の勤務者が何を直したか、どのセンサーが癖を出してるかを私の視界に薄く重ねてくれる更新が、昨夜から止まっている。更新不備。つまり、朝の現場が「勘」に戻る。

右端のゲートで、スーツの男が足止めを食っていた。ピッ、ピッ、と古い電子音。男は苛ついて、折りたたみ携帯をパカパカ開閉している。アンテナが折れそうな角度だ。

「すみません、通れないんですけど」

私は駆け寄り、手動解除を試みる。センサーの微妙なずれ。いつもなら父の声と一緒に“ここを叩け”が視界に出るのに、今日は何もない。

「……和也、どっちだっけ」

「記憶補助が抜けてる。お前、更新申請したか?」

父の声はいつもより遠い。倫理検査で止まっているわけじゃない。止まっていないのに、薄い。

男の背後で列が伸び、センサー網が焦ったように警告を上げた。
〈流量逸脱:E-3。対処推奨:駅務員裁量〉

“裁量”という言葉だけが、やけに古い。

私は駅務室に戻り、棚から朱肉を探した。まだ置いてある。プラスチックの蓋が擦れて白くなったやつ。

机上の紙束――「差分断片・現場対応ログ提出書」。ブロックのどこかの内閣ユニットへ、現場の小変更を投げるための書式だ。デジタルで出せるのに、なぜか紙も要求される。平成の癖。

「ハンコ、押しとけ。あとで揉める」

父が言う。私は苦笑しながら、駅印を取った。

改札機の更新不備を直すには、医療じゃないのに“リモート診療端末”を使う。人格エージェントの状態を診断する共通端末で、駅務室の隅に置かれている。健康と倫理の名目で、何でもそこに吸い寄せられる。

端末の画面に、父の顔が現れた。昔の免許証写真みたいに、少し斜め。

〈エージェント記憶補助パッケージ:差分未適用 3件〉
〈原因候補:署名検証の遅延/配布停止〉

「配布停止……?」

私は画面の詳細を開く。そこに、短い注記があった。

〈配布元:第0x3E9内閣ユニット群〉
〈党ドクトリン署名:照合不能〉

父が鼻で笑う。

「またか。最近は署名なんて飾りだ。現場のほうが先に回る」

現場のほうが先に回る。その言い方が、妙に懐かしくて胸が詰まる。私は端末に向かって、駅の状況を入力した。ゲート右端の誤検知、センサー網の逸脱、混雑の時間帯。

承認ボタンを押す前に、紙の提出書にハンコを押した。朱肉が乾かないうちに、指に赤が移る。

改札へ戻ると、折りたたみ携帯の男は、もう諦めて別のゲートに回ろうとしていた。

「すみません、こちらで通します」

私はゲート脇のカバーを開け、手でセンサーの角度をほんの少し変えた。父に教わった“音”を頼りにする。カチ、と軽い噛み合いの音。

ピッ。

今度は一回で通った。男は一瞬だけ驚いた顔をして、

「助かりました」

と言い、折りたたみ携帯を閉じて小さく会釈した。

列が流れ出す。センサー網の表示が「高」から「中」に戻る。私は汗を拭い、駅務室の端末を見る。

〈差分断片:受領〉
〈暫定適用:現場裁量モード〉

“暫定”の文字の下に、もう一つ、見慣れない行が増えていた。

〈配布停止中の記憶補助を、近傍ノードで相互補完します〉

父が、少しだけ声を近づける。

「な。署名がなくても、つながる道はある」

私は朱肉の匂いの残る指を見下ろした。赤い汚れは、洗えば落ちる。でも今朝の“音”は、私の中に残る。

高架を渡る電車の唸りが、いつもより柔らかく聞こえた。