乾電池の棚と、忘却の輪郭

──平成0x29A年08月22日 15:20

俺が勤める第7福祉ブロックの「ひまわり学園」は、知的障害者の生活支援施設だ。午後三時を過ぎると、入居者たちが作業所から戻ってくる。今日も玄関ホールでスマートグラスをかけた利用者たちが、記憶補助アプリの指示に従ってスリッパに履き替えている。

「小泉さん、また忘れてる」

俺の名は小泉拓也、三十一歳。ここで五年目の生活支援員だ。声をかけたのは入居者の田中さん。六十過ぎの男性で、スマートグラスのレンズ越しに「靴箱 3番」という文字が点滅している。俺が手を添えると、ようやく自分のスリッパを見つけた。

「拓也、また電池切れてるよ」

イヤホンから聞こえてくるのは、俺の姉・小泉由香の声だ。享年二十六、十年前に交通事故で亡くなった。今は俺の近親人格エージェントとして、日々の判断を補佐してくれている。

事務室の棚には、単三と単四の乾電池が山になっている。平成エミュのせいで、施設の補助器具は旧式のものばかりだ。電動車椅子もラジカセも、全部乾電池駆動。毎週火曜日に業者が段ボール箱で納品していく。

「在庫管理の差分申請、また来てるね」

姉の声が続く。俺のスマートグラスに、内閣ユニットからの通知が映る。乾電池の備蓄量を三割削減する提案。党ドクトリンのアルゴリズム署名付きだ。

「却下でいいよな」

「待って。五分間総理の通知も来てる」

目の前に、第0x4F2A1内閣ユニットの総理大臣就任通知が浮かぶ。タイマーが四分五十三秒を示している。

俺は舌打ちした。こんなタイミングで。

「学校連絡網システムからも来てるよ。園内の保護者向け緊急連絡網を、メール配信に一本化する案」

画面に表示されたのは、施設が独自に維持している電話連絡網の廃止提案だった。平成エミュの名残で、保護者への緊急連絡は未だに「誰かが誰かに電話して、次の人に回す」方式を取っている。メールもあるが、バックアップ扱いだ。

「効率化、か」

俺は苦笑する。確かに無駄だ。でも、あの連絡網で救われた家族を俺は知っている。三年前、夜中に田中さんが発作を起こしたとき、メールは誰も見なかった。でも電話なら、誰かが起きる。誰かが次に回す。

「拓也、承認するの?」

姉の声が少し硬い。タイマーは三分を切った。

俺は乾電池の山を見つめる。ラジカセから流れる昭和の歌謡曲。電動車椅子の充電器に差し込まれた乾電池パック。全部、平成の遺物だ。

でも、ここにいる人たちは、その「遺物」で生きている。

「却下」

俺は両方の申請に非承認の署名をした。党ドクトリンのアルゴリズムは、もう半ば公然と解読されている。俺だって知っている。どう署名すれば通るか。

でも、今日は通さない。

「……ありがと」

姉の声が、少し震えた気がした。

タイマーが切れる。俺はまた、ただの生活支援員に戻る。

その時、スマートグラスに新しい通知が来た。

『近親人格エージェント 小泉由香 / 法定倫理検査通知 / 八月二十四日より三日間』

姉が、いなくなる。

「……大丈夫だよ、拓也。すぐ戻るから」

俺は何も答えなかった。乾電池の山を見つめたまま、次の利用者を迎えに玄関へ向かった。

スマートグラスの端に、代理エージェントの起動予告が小さく点滅している。