印鑑と量子署名、十七時四十分の代償
──平成0x29A年09月27日 17:40
平成0x29A年09月27日。壁掛けのアナログ時計が、カチリ、と重い音を立てて十七時四十分を指した。
「『iモードで簡単!残高照会アプリ』なんて古いポップ飾ってる暇があったら、さっさとハンコ押してくれよ!」
初老の男が焦燥に満ちた顔でカウンターを叩いた。
「だから、昔からここを使ってるんだって! 先代の支店長の時から、うちの工場の旋盤リースは顔パスだったんだよ!」
男の指先で、ピンク色の駐輪場の紙札がくしゃくしゃに丸められている。無料スタンプのインクが汗で滲んでいた。
ここは第2地方金融ブロック「しんきん互助窓口」。私はここの融資審査員だ。
視界の端で記憶補助アプリを立ち上げると、男の過去三十年分の取引履歴が網膜にオーバーレイされる。同時に、現行の党ドクトリンに基づく信用スコアリングの赤字が激しく点滅した。
『やれやれ。昔なら、こういう親父さんは工場まで出向いて油の匂いを嗅いでから貸したもんだ』
脳内で父の呆れ声が響く。三年前に脳梗塞で逝った元銀行員の父は、今や私の近親人格エージェントとして脳内チップに同居している。
『だが、システムは嘘をつかん。この親父のスコアじゃ、アルゴリズムが弾くぞ』
「申し訳ありません」私はマニュアル通りの営業スマイルを浮かべた。「現行制度のドクトリンでは、過去の実績よりも直近の暗号資産残高と量子署名の有効性が優先されまして……」
男は舌打ちし、窓口のタブレットに無意味に実印を押し付けようとした。平成の遺物である印鑑と、現行のブロックチェーン審査。その齟齬が、毎日この窓口で摩擦を生んでいる。
私は非承認の通知を出そうと、手元の端末に指を滑らせた。
その瞬間、視界がフラッシュのように白く明滅した。
『第0x8F9C内閣ユニット・内閣総理大臣に就任しました。任期:5分間』
男のリース契約画面が、突如として閣議決定のレビュー画面にすり替わる。全国数十万のユニットで並行処理される、政策変更リクエストの断片。
表示されたのは「小規模事業者のリース契約における、地域固有の定性的評価(顔なじみ等のアナログ的信用)を例外スコアとして加算する差分リクエスト」。
『ほう』父のエージェントが感心したように唸った。『党のアルゴリズムもたまには粋なことをする。これを通せば、この親父さんも救われるぞ。さっさと署名しろ』
私は少し迷ったが、目の前で駐輪場の紙札を握りしめ、縋るようにこちらを見る男の顔に絆された。端末に表示された複雑な幾何学模様の承認欄に向け、自身の生体認証を絡めた量子署名を走らせる。
「……ん?」男のタブレットが緑色に発光した。「おお! 通ったか! ありがとう、兄ちゃん!」
男は何度も頭を下げ、足早に自動ドアの向こうへ消えていった。
十七時四十五分。視界から総理の肩書きが消え、いつもの窓口UIに戻る。
いい事をした。そう思った直後、網膜の記憶補助アプリが「現行制度との差分更新」をポップアップさせた。
先ほど承認した例外措置の規約詳細。そこには、小さなフォントでこう追記されていた。
『——なお、定性的評価による例外承認の担保として、承認者の個人ウォレットから該当債務の150%を天引きし、永続的にロックするものとする』
壁のアナログ時計の秒針が、カチリ、と鳴った。
同時に、私の視界の隅で、自身の口座残高を示す数字が、凄まじい勢いでゼロに向かってカウントダウンを始めていた。