シャッターの向こう、インクの呼吸
──平成0x29A年11月25日 11:10
俺の名前は桜井修一。三十二歳。第六居住ブロック、C-9棟の三階に住んでる。職業は、遺伝子ネットワーク保守員。といっても、末端の末端だ。人々の体内に薄く広がった皇室由来の遺伝子配列が、ときどき微細なエラーを起こす。それを検知して、上位ユニットに報告するのが俺の仕事。
今日は十一月の終わり。朝からどんよりした空で、部屋の窓からは隣棟のベランダに干された布団が見える。湿気を含んだ空気が、古い鉄筋の匂いを運んでくる。
「修一、朝食は摂ったか」
声が頭の中に響く。エージェントの父さんだ。桜井康夫、享年五十九。十年前、配線工事中の感電事故で死んだ。生前は無口だったのに、エージェントになってからやけに世話を焼く。
「まだ」
「また抜いたのか。胃に悪いぞ」
「わかってる」
適当に返事をして、俺は端末を開いた。今日の巡回先は、ブロック内の写真屋「フォト・ラボ・ヤマダ」。昨夜、遺伝子ネットワークの微細な異常を示すアラートが上がっていた。数値は0.003パーセントのゆらぎ。誤差の範囲内だが、一応確認しに行く必要がある。
店は一階の商店街にある。シャッターが半分降りたままで、中から現像液の匂いが漏れてくる。ドアを開けると、カウンターの奥で初老の男が何かを操作していた。
「すみません、遺伝子ネットワーク保守です」
「ああ、来たか」
男は振り返りもせず、手元の機械をいじり続けている。省人化レジだ。画面には生成AI校正のマークが点滅している。領収書の文面を自動で整えているらしい。
「昨夜、この辺りで微細なゆらぎが検知されたんです。何か心当たりは」
「さあな。うちはフィルム写真の現像しかやってない」
男はようやくこちらを向いた。目の下に深いクマがある。
「フィルム?」
「ああ。デジタルじゃない、本物のフィルムだ。最近また需要が出てきてな」
平成エミュの影響だろう。九十年代と二千年代が混線して、人々は懐かしさを求める。フィルム写真も、そのひとつ。
「修一、この店の登録情報を見てみろ」
父さんの声が頭に響く。端末を操作すると、店主の遺伝子情報が表示された。皇室由来の配列が、通常より濃い。
「店主さん、失礼ですが、遺伝子ネットワークの定期検査は受けてますか」
「受けてるよ。三ヶ月前にな」
「では、何か変わったことは」
男は黙って奥の棚を指差した。そこには、無数の現像袋が積まれている。
「昨日の夜、急に注文が増えた。百件以上。でも、どれも宛先が同じなんだ」
「同じ?」
「ああ。全部、存在しない住所だ」
俺は端末で住所を確認した。第六居住ブロック、C-9棟、五階。俺の住んでる棟だ。でも、五階には部屋がない。四階までしかない。
「修一、これは報告した方がいい」
父さんの声が少し震えている。
「わかってる」
俺はカウンターに目を落とした。そこに、古びた紙のポイントカードが置いてあった。店名の横に、手書きで「五階の方へ」と書かれている。
「これ、誰のですか」
「さあな。昨日の朝、カウンターに置いてあった」
男は肩をすくめた。
俺はカードを手に取った。紙の質感が、指先に残る。裏面には、小さな文字で何かが書かれている。
『ゆらぎは、呼吸です』
その瞬間、端末のアラートが鳴った。遺伝子ネットワークのゆらぎが、0.005パーセントに上昇している。
「修一、早く報告を」
父さんの声が遠く聞こえる。
俺はポイントカードをポケットに滑り込ませた。報告は、後でいい。まず、五階に行ってみる。
店を出ると、空はさらに暗くなっていた。風が、現像液の匂いを運んでいく。
俺は、C-9棟に向かって歩き出した。