朱肉の月次締め

──平成0x29A年04月24日 00:10

平成0x29A年の四月二十四日、0時10分。

第12金融ブロックの無人契約室は、夜中でも冷房が効きすぎていて、紙だけが妙に湿る。私は受付の端末に社員証をかざし、カウンター脇の朱肉を叩いた。乾かない匂いが、昔の家の居間を思い出させる。

「今日の月次、間に合うの?」

耳の奥で、母の声がする。母の人格エージェントは、私の視界の右下に小さな吹き出しで常駐している。生前、区役所の契約窓口で働いていた人らしく、手続きの話になるとやけに元気になる。

「間に合わせる。印鑑文化を捨てるって言われても、うちの取引先が捨てないんだよ」

私はMDプレーヤーのリモコンを押した。イヤホンから、少しこもったJ-POPが流れ始める。曲はMDに入っているのに、歌詞表示はサブスクの字幕データを拾って勝手にARで壁に投影される。平成の寄せ集めみたいな仕組みだ。

契約室の正面にはホログラム掲示が浮いていた。

『本日の契約更新は差分断片方式に移行しました。
紙面の押印は「情緒的確認」として扱います。
法的効力は署名アルゴリズムに準拠します』

情緒的確認、って。
私は笑いかけて、結局笑えなかった。

机上にあるのは、取引先の古い紙契約書の束と、差分断片の提出用タブレット。紙に押すハンコは、上司から受け取った会社の角印だ。角が欠けていて、何度押しても右上が薄い。

「薄いのはダメ。押し直し」
母が言う。

「でも“情緒的確認”なんだろ? 薄い情緒でもいいじゃん」

「薄い情緒が一番揉めるの。ほら、押し直し」

私はため息をついて、もう一度朱肉に当てた。

タブレットの画面には、取引先から届いた差分断片が並ぶ。
『支払サイト:末日締め翌月末→翌々月末』
『遅延損害金:年14.6→党ドクトリン準拠』
『紛争解決:第12金融ブロック仲裁→自動仲裁(ユニット並列)』

母が小さく舌打ちする。

「“党ドクトリン準拠”って、書き方が雑。相手、分かってないか、分かってて隠してる」

私は指でスクロールし、承認ボタンの手前で止まった。承認すると、暗号署名が走る。拒否すると、交渉がやり直し。どちらにしても、明日の朝には誰かが怒る。

そのとき、視界の上に赤い通知が割り込んだ。

『遺伝子ネットワーク通知:
あなたの系譜ノードに対し、式典同調要求(低優先)が発生しました。
同調を拒否した場合、金融認証の一部が遅延する可能性があります』

式典? こんな時間に?
母の吹き出しが一瞬固まって、代わりに淡いグレーに変わった。

「……それ、最近増えてる。無視しなさい」

「拒否したら遅延するって」

「遅延は仕事で取り返せる。でも同調は、一回飲み込むと癖になる」

私は喉の奥が乾くのを感じた。遺伝子ネットワークなんて、普段は健康診断の照合くらいでしか意識しない。なのに、契約の認証と絡めて脅してくる。

ホログラム掲示が、さっきより少しだけ明るくなった。

『同調は任意です。
任意は推奨です。
推奨は社会安定に資する』

推奨は任意。任意は推奨。
言葉が循環して、出口がない。

私は角印を紙に置いたまま、タブレットの差分断片を一つずつ確認した。党ドクトリン準拠、の行に、細い注釈がぶら下がっている。

『※署名アルゴリズムv402.11(解読互換)を使用』

解読互換。
つまり、誰でも真似できる、という意味だ。

母が言った。

「ねえ、あなた、今夜だけは押印を先にして。紙の方」

「順番?」

「順番を守ると、まだ“人がやった”って残る」

私は言われた通り、紙契約書の最終ページに角印を押した。湿った紙に朱肉が吸われて、欠けた角がさらに欠けて見えた。

次に、タブレットの承認ボタンに指を置く。

その直前、別の通知が走った。

『内閣ユニット監査:
本端末は第0x1F2A3内閣ユニットの差分レビュー補助に一時接続されました(5分)。
補助エージェント:代理0x77』

誰の内閣かも分からない。五分だけ誰かが総理で、誰かが補助で、私の指先だけがここにある。

母の吹き出しが、また灰色に濁った。

「……今の代理、嫌な感じ。押さないで」

「でも月次締めが」

「押すなら、拒否。拒否して、相手に再提出させて」

私は承認ではなく、非承認を選んだ。理由欄に「党ドクトリン準拠の範囲が不明確」とだけ打ち込む。平成の契約書なら、ここで電話して、菓子折りの話になる。今は、ボタン一つで喧嘩が始まる。

ホログラム掲示が、沈黙するように一瞬消えた。

代わりに、壁一面に新しい文が浮かんだ。

『差分断片の再提出が確認されました。
提出者ID:あなた
提出時刻:00:10:38』

私は息を止めた。

「……私、出してない」

母の声も、少し遅れて震えた。

「出してない。あなたは拒否した」

MDの曲が、ちょうどサビで途切れた。電池残量の警告音だけが鳴る。耳の中が急に静かになって、朱肉の匂いだけが濃くなる。

タブレットのログを開くと、拒否の記録は確かに残っている。なのに、再提出者は私。

遺伝子ネットワーク通知が、さっきより柔らかい文面で再び現れた。

『同調ありがとうございます。
あなたの系譜ノードは社会安定に資しました』

私は拒否ボタンに指を伸ばしたまま、動けなくなった。

机の上の角印が、欠けた角をこちらに向けている。
まるで、最初から押す場所が決まっていたみたいに。