四時の分電盤

──平成0x29A年11月06日 04:20

俺が住んでるのは旧川口エリアの集合住宅で、八階建ての五階だ。朝の四時二十分、まだ外は暗い。

寝室の壁に埋め込まれたCRTモニターが、淡い緑色の文字で電力配分通知を流している。省電力マイクログリッド第0x4F2Aユニットからの自動送信だ。画面の隅にドット絵のアイコンが点滅している。九〇年代のパソコン通信みたいな見た目で、妙に落ち着く。

通知内容は「分電盤メンテナンス要請・紙面承認必要」。

俺は欠伸を噛み殺しながら布団から這い出た。マイクログリッドの保守担当なんて大層な肩書きだが、要するに集合住宅の電気周りを見て回る管理人だ。月給制じゃなくて案件ごとの出来高だから、夜中でも呼ばれる。

「おはよう、洋介」

エージェントの声が耳元で鳴った。俺の兄貴、北村洋一。享年三十七、過労死。生前は同じ保守業界で働いてた。声は若い頃のまま、少しかすれている。

「……おう」

短く返して、俺は台所の引き出しから紙の地図を取り出した。この集合住宅の配線図だ。手書きの赤ペンで修正箇所が書き込んである。党ドクトリンのデジタル台帳は更新が遅くて、現場じゃ使い物にならない。結局、紙が一番正確だ。

地図を広げながら、CRTモニターの通知をもう一度確認する。五階北側、分電盤C-12の定期点検。承認印が必要だと書いてある。

「紙の承認書、どこだっけ」

「廊下の棚、一番下」

兄貴の記憶は正確だ。俺は廊下に出て、棚から朱肉と承認印のセットを引っ張り出した。プラスチックケースに入ってて、蓋を開けると朱肉が乾いてる。水を数滴垂らして練り直す。この手続きも平成エミュの一部らしいが、誰も気にしちゃいない。

分電盤は共用廊下の突き当たりにある。鍵を開けて扉を引くと、古い配線と基盤が並んでいる。LEDの緑ランプが規則正しく明滅してた。異常なし。

俺は点検シートに日付と時刻を書き込んで、承認印を押した。朱肉の赤が薄くて、二度押しする。シートは三枚複写式で、一枚目をマイクログリッドユニットへの提出用、二枚目が住民掲示板用、三枚目が俺の控えだ。

「これで終わり?」

「ああ。あとは一階のポストに投函するだけ」

階段を降りながら、兄貴が言った。

「なあ、洋介。最近、省人化レジが増えてるだろ。コンビニとか」

「ああ、見たことある」

「あれもマイクログリッド管理なんだよな。俺が生きてた頃は、まだ有人レジが主流だったけど」

俺は何も答えなかった。兄貴の記憶は二十年前で止まってる。その間に世界は少しずつ変わった。でも、変わらないものもある。朱肉とか、紙の地図とか。

一階に降りると、郵便ポストの隣に「承認書投函口」と書かれた箱があった。シートを一枚だけ入れて、残りは持ち帰る。

エントランスの自動ドアが開いて、外の冷気が入ってきた。空はまだ暗くて、街灯が点々と光っている。

「洋介、もう一件入ってる」

エージェントが告げた。CRTモニターの通知が更新されたらしい。次は三階の給湯設備だ。

「了解」

俺は階段を引き返しながら、ポケットから紙の地図を取り出した。三階の配管図を指でなぞる。赤ペンの修正が何本も走ってる。兄貴が書いたものも、俺が書いたものも、ごちゃ混ぜだ。

朝の五時まで、まだ少し時間がある。