透明な血脈と、閉ざされたゲート

──平成0x29A年06月16日 15:40

 油の抜けたプラスチックの感触が指先に残っている。私は駅のコンコースの隅で、バイオメトリック改札の裏蓋を開けていた。3Dプリント部品で作られた代替用のアクチュエーターは、設計データの劣化のせいか、わずかにバリが残っている。それをナイフで削りながら、私は誰にともなく話しかけた。

「結衣、このロット、少し精度が甘いと思わないか」
『そうね。でも、党ドクトリンの標準規格内よ。あまり神経質にならないで、朔くん』
 網膜に投影されたエージェントの結衣が、生前と変わらぬ穏やかな声で笑う。二十五歳で逝った彼女の人格は、法定倫理検査を終えたばかりで、以前よりも少しだけ丁寧な口調になっていた。

 改札の向こう側、町内会掲示板を模したデジタルサイネージには、「防犯キャンペーン」の文字が踊っている。フォントは二十一世紀初頭の、少し野暮ったいゴシック体だ。その横を、ガラケー型の管理端末を片手に持った若者が通り過ぎていく。彼らの衣服は最新のナノテクスチャだが、そのスタイルは「平成」の流行を忠実にエミュレートしている。誰もそれが三百年以上前の遺物だとは気づいていない。

 ポケットの中で、今朝ポストから抜き取ったガス検針票がカサリと鳴った。紙の検針票。党が「情緒的安定に寄与する」と定義してから、この不合理な紙片が復活して久しい。裏面の余白には、今晩買うべき食材のリストが私の字で書き殴ってある。

 15:40。
 その瞬間、視界が真っ赤な警告色に染まった。腕のデバイスが、骨に響くような振動を伝える。

【緊急通知:第0x29A214内閣ユニット・内閣総理大臣に任命されました。任期:300秒】

「またか」と、私は独り言ちた。数十万ある並行ユニットの一つとはいえ、この確率は最近高すぎる。
『朔くん、集中して。リクエストが届いているわ』
 結衣のサポートで、空中に浮遊する閣議決定用のダッシュボードが開く。リクエストの差分断片は一つ。発信源は「党」中央アルゴリズム。

【件名:広域交通網における遺伝子ネットワーク再キャリブレーションの承認】
【概要:国民に伝播している皇室遺伝子の整合性確認のため、全バイオメトリック改札を強制閉鎖し、詳細スキャンを実施する】

 ドクトリンの署名アルゴリズムは「承認」を強く推奨している。否認すれば、このブロックの交通システムは不整合を起こし、私は倫理違反で再教育行きだ。
「全閉鎖……? 今、このラッシュが始まる時間にか」
『アルゴリズムは、社会安定のための不可避な儀式だと判断しているわ。朔くん、署名を』

 私は、手に持っていた3Dプリント部品を床に置いた。指先を仮想の署名欄に滑らせる。暗号化された連鎖システムが、私の五分間だけの権限を吸い込み、世界へ伝播させていく。

 直後。コンコースに、重厚な金属音が響き渡った。修理中だった改札だけでなく、並んでいた十数基のバイオメトリック改札が一斉に赤いランプを灯し、フラップドアを硬く閉ざした。

「なんだ?」「故障かよ」
 乗客たちの困惑した声が上がる。人々は改札機に手をかざすが、生体認証は受け付けられない。センサーはただ、彼らの深層にある「血」の情報を、冷徹な精度で読み取り始めた。

『承認完了。お疲れ様、朔くん。あと三秒で任期終了よ』
 結衣が満足そうに微笑む。私のデバイスからは総理大臣の権限が消滅し、ただの保守員に戻った。

 ふと、掲示板の横で立ち止まっている一人の老婆が目に入った。彼女は閉じられた改札を見つめ、何かに怯えるように自分の手首をさすっている。その視線は、人々の群れではなく、足元のタイルに向けられていた。

「結衣、この再スキャンで、もし適合率が基準を下回る人間がいたら……どうなるんだ?」
 結衣は答えなかった。代わりに、彼女のホログラムが少しだけノイズで揺れた。改札機のセンサーが、今まで聞いたこともないような高い電子音を上げ、老婆の足元を青白いレーザーがなぞる。

 私は震える手でポケットのガス検針票を握りしめた。そこには、今晩作るはずだった「肉じゃが」の材料が並んでいる。しかし、駅のスピーカーから流れる「しばらくお待ちください」という平成風の合成音声は、どこまでも平坦で、いつ終わるとも知れなかった。
 改札の向こう側で、一人、また一人と、人々がその場に座り込み始める。それはまるで見えない糸が切れた人形のようだった。私の修理したアクチュエーターは、二度と開く気配を見せない。