黒い筐体の唸り、湿った感熱紙
──平成0x29A年06月15日 14:30
梅雨の湿気が、団地の剥げかけた塗装に染み込んでいる。午後二時三十分。俺は首筋の汗を拭いながら、三〇四号室の鉄扉の横にあるパイプスペースを開けた。
錆びた蝶番が悲鳴を上げる。薄暗い内部には、複雑に絡み合う配管と、埃を被ったガスメーター。そして、その隙間に無理やり押し込まれた黒い直方体が鎮座していた。
「うわ、またこれ? 流行ってんの?」
脳内で涼子の声が響く。俺の視覚野を共有している亡き妻のエージェントだ。
「今月で三件目だ。電気代が定額制になった穴を突いてやがる」
俺は端末をかざして照合する。黒い箱は、ソニー製のPlayStation 2。通称PS2。数百年前に生産された古代の家庭用ゲーム機だが、その堅牢な設計とEmotion Engineとかいう特異な演算チップが、現代のブロックチェーンにおける特定のハッシュ計算に適しているらしい。誰かがこいつを分散ストレージのノードとして再利用し、小銭を稼いでいるのだ。
ファンの音がうるさい。排熱がこもって、ガスメーターが熱を帯びている。これは規約違反だ。
俺は腰のベルトから携帯プリンタを取り出し、検針データを送信しようとした。だが、端末の画面には砂時計が表示されたまま動かない。
『量子署名リクエスト:待機中……』
「帯域、食いつぶされてるな」
このPS2が、団地の共用回線を全力で使ってストレージの同期を行っているせいだ。生活インフラの微細な目詰まり。俺は舌打ちをして、端末を振った。
「ねえ、譲。これ、SCPH-30000系じゃない? 実家の押し入れにあったやつと同じ」
「型番なんてどうでもいい。検針票が出せないんだよ」
「冷たいなあ。あの青と紫のグラデーションの起動画面、怖かったけど好きだったのに」
涼子は生前、レトロゲームのアーカイブ漁りが趣味だった。俺にはよくわからない感性だ。
その時、視界の端に赤い警告灯が点滅した。
『内閣府認証通知:あなたは現在、第0x8C41A内閣の総理大臣に選出されました(残り時間:04分59秒)』
唐突なランダム選出。俺はため息をつく。こんな蒸し暑い廊下で、一国の長になっても嬉しくはない。
「あ、総理だ。おめでとう」
「茶化すな。ちょうどいい、権限を使うぞ」
俺は思考入力で「党ドクトリン」にアクセスする。この団地一帯の通信優先度を、一時的に「国家保安レベル」へ引き上げる閣議決定を行った。理由付けは「重要インフラ(ガス検針)の保全」。アルゴリズムが即座に承認し、不可視のハンコが押される。
一瞬でPS2の通信が遮断された。ファンの唸りが止まり、代わりに俺の手元のプリンタが軽快な電子音を立てる。ジジジ、と感熱紙が吐き出された。ガスご使用量のお知らせ。
俺は検針票を千切り、メーターボックスの隙間に挟もうとして、手を止めた。
静かになったPS2の横に、一枚のMDが置かれているのに気づいたからだ。埃まみれのケースに入った、透明なディスク。
「わ、MDだ。懐かしい。なんて書いてある?」
俺はそれを拾い上げる。ラベルには手書きで『Summer Mix '98』とあった。
「ただの音楽データか、それともこれもストレージの一部か」
「ねえ、譲」
涼子の声色が、急に真面目なトーンに変わる。
「なに」
「私、あなたに隠してたことがあるの」
心臓が少し跳ねる。こんなタイミングで、何を言い出すんだ。
「……なんだよ」
「私が入院してた時、あなたが焼いて持ってきてくれたMDあったでしょ? 『元気が出る曲集』ってやつ」
「ああ、あったな」
俺は苦い記憶を反芻する。彼女が死ぬ三ヶ月前のことだ。
「あれね、実は一回も聴いてないの」
俺はMDを持ったまま固まった。
「は?」
「だって、選曲がダサかったんだもん。演歌とかアニソンとかごちゃ混ぜで。聴こうとすると笑っちゃって、免疫細胞が活性化しすぎるからやめたの」
涼子がくすくすと笑う。俺は脱力して、パイプスペースの扉に背中を預けた。
「お前なあ……感想聞かせろって言ったら『勇気が出た』とか言ってただろ」
「嘘だよ。あなたが一生懸命選んでくれたのが嬉しかっただけ。中身なんてどうでもよかった」
湿った風が廊下を吹き抜けていく。俺は手の中の検針票と、誰かのMDを見比べた。
「……ひどい話だ」
「ごめんね。でも、愛してたよ」
さらりと言われたその言葉は、量子署名よりも強固に俺の胸に刻印された。
俺はMDを元の場所に戻し、検針票をその上に乗せた。PS2の電源は抜かなかった。総理大臣の任期はあと三分残っているが、もう政治を行う気にはなれなかった。
再び唸り始めた黒い箱の低音を背に、俺は次の部屋へと歩き出した。