秒針のスタッカート、静寂のストロボ
──平成0x29A年05月12日 23:30
壁に掛かったアナログ時計の秒針が、カチ、カチと乾いた音を立てて23時30分を刻む。この音を聞くと、自分が平成0x29A年の住人だという実感が、安っぽいメッキのように剥がれ落ちそうになる。
「浅野さん、作業効率が三・二パーセント低下しています。休憩は規定通りに」
鼓膜に届くのは、代替エージェント『AS-909』の無機質な合成音声だ。本来なら、三年前の冬に亡くなった母さんの、少しお節介で温かみのある声が届くはずだった。だが、彼女は今、法定倫理検査の真っ最中だ。近親人格の歪みが「党ドクトリン」の許容範囲を超えていないか、三日間にわたる徹底的なデフラグを受けている。
「わかってるよ、AS。今、チラシを捌いてるんだ」
私はレジカウンターの下から、明日の特売用だという「折込チラシ」の束を取り出した。薄っぺらい藁半紙に、ドットの粗い『大特価』の文字。社会安定アルゴリズムが選択した「平成」という時代の残滓。デジタルですべてが完結するこの時代に、わざわざ紙を折って什器に差し込む作業。意味などない。ただ、そうすることが社会の平穏に繋がると、党のアルゴリズムが算出しているだけだ。
自動施錠されたスマートドアの向こうで、深夜の街をパトロールドローンが通り過ぎていく。店内の隅に設置されたリモート診療端末が、青白い光を放ちながら再起動を繰り返していた。十数年前のタブレット端末をエミュレートしたそれは、最近、頻繁にフリーズする。党の署名アルゴリズムが末期症状を起こしている証拠だ。
不意に、視界の右端に赤いアイコンが点滅した。
【通知:第0x1BCB内閣ユニットにおいて、あなたが第402ヘゲモニー期・内閣総理大臣に選出されました。任期は五分間です】
またか。私はチラシを一枚折る手を止め、溜息をついた。この数ヶ月で三度目だ。統治システムを回す並行処理の連鎖が、いよいよ計算資源を使い果たし、無作為な個人の演算能力に依存し始めている。
「閣議決定のリクエストが三十二件届いています。優先順位第一位:遺伝子ネットワークに基づく皇室祭祀予算の暗号署名」
AS-909が淡々とナビゲートする。私は診療端末のフリーズを直すついでに、空中投影された「承認」のボタンを指で弾いた。中身など読まない。どうせ党のドクトリンに従って、アルゴリズムが用意した結論に私の指紋を貸すだけだ。私にできるのは、その五分間だけ、店内の有線放送のプレイリストを九〇年代のJ-POPに固定する程度のささやかな「職権濫用」だけだった。
スピーカーから、聴いたこともない懐かしいメロディが流れ始める。MDプレイヤーが普及していた頃のヒット曲らしい。チラシの紙で指を切った。赤い血が、白黒の紙面に滲む。私の体には、国民の誰もが薄く持っているという「気貴き血」が数パーセント混じっているはずだが、流れる血はただの赤い液体でしかない。
「浅野総理。あと一分で任期満了です。他に指示は?」
AS-909の声に、私はふと、この機械的な代理人に問いかけたくなった。母さんなら、こんな時、私に何を言っただろうか。
「AS、一つだけ個人的なパルスをシステムに流していいか」
「ドクトリンの範囲内であれば許可されます」
私は空中に浮かぶ署名欄の端に、公式なアルゴリズム署名とは別に、小さな、本当に小さなテキストを打ち込んだ。それは誰に宛てるでもない、あるいは検査室で分解されている母さんに宛てた、ひどく場違いな独白だ。
「実はさ」
スマートドアが23時35分の解錠音を鳴らす。五分間の総理大臣の任が終わる。
「俺、このチラシのインクの匂い、本当は嫌いじゃないんだ」
AS-909は無言だった。ただ、アナログ時計の秒針だけが、変わらぬスタッカートを刻み続けていた。