ビニールハウスの甘い脆弱性
──平成0x29A年02月27日 15:50
午後三時五十分。ビニールハウスの中は、むせ返るような甘い匂いで満たされていた。
俺は腰のベルトから折りたたみ携帯を取り出し、カチリと開く。親指で物理キーを弾き、ハウス内の環境制御システムにアクセスした。モノクロの液晶画面には、気温二十五度、湿度六十パーセントの表示。目の前には、最新鋭の自律型散水アームや、受粉用の超小型ドローンが待機するスマート家電群が並んでいる。それらを制御するのが、この塗装の剥げたガラケーだというのが、いまだに笑える。
「拓也、三番レーンの『とちおとめ改』、糖度センサーがバグってるよ」
片耳のイヤホンから、妻の美咲の声がした。五年前に事故で亡くなった彼女は、今も変わらず俺の尻を叩く。
「バグじゃない。仕様だよ」
俺は足元の共有型バッテリーステーションに目をやった。重たいリチウムイオンの塊を引き抜き、空になったスロットに差し込む。そして、胸ポケットから緑色の紙の通帳を取り出し、ステーション脇のリーダーに通した。ジジジ、ジジジ。懐かしい印字音とともに、バッテリーの使用料が引き落とされ、昨日の出荷売上が記帳される。このアナログな手触りと、ブロックチェーンの残高が直結している感覚は、いつまで経っても慣れない。
その時、ガラケーが着信を告げて震えた。電話ではない。内閣ユニットからの招集だ。
『第4928次農業政策レビュー:署名アルゴリズム0x9Fのセキュリティパッチ適用について』
俺は五分間だけの総理大臣として、画面を睨んだ。
党のドクトリン署名アルゴリズムには、致命的な脆弱性がある。本来は厳密な倫理規定で守られるはずの「植物成長促進コード」が、ネットの掲示板で丸裸にされているのだ。特定の数値を入力すれば、正規の手続きを飛ばして、法外な糖度と成長速度を引き出せる。
「これ、承認しちゃったらマズいんじゃない?」美咲がくすりと笑う声がする。「ウチのイチゴ、全部そのセキュリティホールを使って甘くしてるんでしょ?」
「人聞きが悪いな。最適化と言ってくれ」
政府から送られてきたパッチを適用すれば、アルゴリズムは正常化され、脆弱性は塞がれる。社会は健全になり、俺のイチゴは酸っぱく、小さくなるだろう。
俺はハウスの奥に目をやった。裏技コードでドーピングされたイチゴたちは、宝石のように赤く、背徳的なほどに巨大だ。
手元のガラケーで、俺は迷わず『非承認』のボタンを押した。理由は適当に『現場の混乱を招くため』と入力する。
数秒後、閣議決定の通知が届く。どうやら他の並列総理たちも、似たような判断を下したらしい。脆弱性は維持された。
「あーあ、悪い総理大臣」
「国民に甘い果実を提供するのが政治の務めだ」
俺はガラケーを閉じ、通帳をポケットにしまう。摘み取ったばかりのイチゴを口に放り込むと、舌が痺れるほど甘かった。これだけハッキングされていれば、もしかしたらこの甘みすら、誰かが書き換えた信号の味なのかもしれない。