窓口の午後、代理は知らない
──平成0x29A年12月22日 14:50
平成0x29A年12月22日、14時50分。第0x05行政ブロック、市民サービス窓口の午後だ。視界の隅で「冬のボーナスキャンペーン!仮想通貨で年越しそばを!」というAR広告が瞬いている。今日の午後も相変わらずの混雑ぶりで、私の意識は自然と対応モードに切り替わる。
「次でお待ちの方」
そう声をかけると、小柄な老婦人がゆっくりとカウンターに歩み寄ってきた。不安げな顔に、昔ながらの毛糸の帽子が深くかぶさっている。私の側頭部に埋め込まれた代理エージェント0x3Bが、すかさず定型文を表示する。「橘様、いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか?」
「あのね、自転車の、あの、紙のやつ…駐輪場の札をなくしちゃってね」老婦人は困ったように指先を揉む。「昔はiモードサイトで調べてたんだけど、今はもう何がなんだか。スマホも複雑でねぇ」
代理エージェント0x3Bは、老婦人の言葉を即座に解析し、一般的なFAQを表示した。「駐輪場管理システムは現在デジタル化されており、ICタグ認証が主流です。紙札の発行は…」
私は眉をひそめた。祖母のハナがエージェントとして傍にいてくれたら、きっとこの方はこんな困った顔をしないだろう。ハナはいつも、相手の言葉の裏にある「本当の気持ち」を読み取るのが得意だった。今、ハナのエージェントは法定倫理検査中で、代理エージェント0x3Bはただ効率的に、そして事務的に対応を試みるのみだ。
「ええ、知ってるのよ。でも私、まだあの、紙の札のところを使ってるから。あれがないと、自転車が動かせないんじゃないかと思って」老婦人の声が少し震える。駐輪場の紙札は、今の時代にはほとんど残っていない旧式の管理方法だ。システムで再発行はできない。政策変更リクエストを挙げたところで、通るはずがない。
その時、私の網膜に赤色の緊急アラートが点滅した。『第0x*****内閣ユニット総理大臣に任命されました。任期残り4分50秒』。またか、と思う。週に一度は回ってくるランダム任命だ。私は心の中で溜息をついた。党ドクトリンに基づく量子署名が求められる。
「閣議決定は党中央ドクトリンに基づく量子署名が必要です。現行制度との差分断片は…」代理エージェント0x3Bが、今度は私に事務的な指示を送り始めた。
私は老婦人の顔を見た。彼女の瞳には、自転車に乗ってどこかへ行きたい、という純粋な願いが宿っているように見えた。「社会安定に最適」……その言葉が、私の頭の中で反響する。この小さな困り事を解決することも、一つの社会安定に繋がるのではないだろうか。
「おばあちゃん、今から特別な申請をします。少し時間がかかるかもしれないけど、これで紙札が再発行できるかもしれません」私は老婦人に告げ、端末を操作した。代理エージェント0x3Bは「前例がありません」「党ドクトリンは…」と難色を示すが、私は内閣総理大臣としての権限を行使し、「旧式駐輪場紙札特例再発行制度」という政策変更リクエストを強引に提出した。
躊躇なく、量子署名を行う。承認ボタンを押す。残り時間「0分10秒」。
「ありがとう、これでまた自転車に乗れるわ」老婦人の顔に、ようやく安堵の笑顔が広がった。その笑顔は、AR広告の派手な色彩よりもずっと温かい光を放っていた。
「署名完了。次のリクエスト…」代理エージェント0x3Bの声は、相変わらず無機質だ。しかし、私の心の中には、老婦人の小さな笑顔が深く刻み込まれた。祖母のハナなら、きっと「そうそう、そういう心遣いが一番大事なのよ」と褒めてくれただろう。形式的な「承認」の先に、たしかな「小さな救い」があった。冬の陽射しが、窓口のカウンターに優しく差し込んでいた。それは、少しだけ解読された、未来の兆しのように思えた。