水たまりに滲む暗号
──平成0x29A年06月21日 03:30
午前三時半。展望フロアは僕と、姉さんのエージェントだけだった。
ガラスの外は、平成0x29A年の雨。無数の光の点が、黒い防水シートにぶちまけられたビーズみたいに瞬いている。窓を叩く雨音と、フロアの湿度を一定に保つスマート空調の低い唸りだけが、世界のすべてだった。
『航。眠い? コーヒー、淹れようか』
脳内に、姉さんの声が響く。旅行代理店で働いていた姉さんは、いつも溌溂としていた。エージェントになっても、その声色は変わらない。
「大丈夫だよ、姉さん」
僕は口の中でだけ呟いた。
その時、静寂を破ってエレベーターの到着音が鳴った。
こんな時間に客なんて、まずありえない。観光客なら最終便でとっくに帰っている。
扉が開き、現れたのは黒いフード付きコートの男だった。手には、どこにでもある半透明のビニール傘。床にぽたぽたと水滴の跡をつけて、男はまっすぐこちらへ歩いてくる。
窓の外の夜景には、巨大なAR広告がいくつも浮かんでいる。『月面旅行、今なら往復50万クレジット!』だの『最新型オートシェフ、あなた好みの味を完全再現!』だの、いつの時代のセンスかわからない広告が、雨の光を邪魔するように明滅していた。
男は僕の前で立ち止まった。フードの奥の顔は見えない。
彼は何も言わず、コートのポケットからくしゃくしゃの紙片を取り出して、カウンターに置いた。
それは、駐輪場なんかで渡される、ボール紙の札だった。
手書きの数字。『B-17』。
心臓が、少しだけ速く打った。
マニュアルにはない。でも、前任者から口頭で、たった一度だけ引き継がれたルール。
『航、これって……』
姉さんが、僕の記憶アーカイブから該当する断片情報を引き出そうとしているのが分かった。
「大丈夫」
僕は再び、声にならない声で応える。
僕は黙って頷くと、カウンター下のコンソールを操作した。
申請理由は『システムメンテナンス』。対象エリアは『セクター・ガンマ』。僕のIDで一時的なオーバーライドを要求する。
数秒のラグ。どこかの内閣ユニットが、この些細な申請を自動承認したのだろう。ピー、と短い電子音が鳴った。
男が向かう先の、窓ガラス一枚分のAR広告が、フッと音もなく消える。他の窓では相変わらずケバケバしい広告が踊っているのに、そこだけがぽっかりと、本当の夜景を取り戻していた。
男は会釈もせず、その窓へ歩み寄る。そして、ただじっと、ガラスの向こうを見つめ始めた。
僕も、男が見つめる先を追った。雨と光が滲む、巨大な都市の模型。男は何を見ているんだ?
僕には何も見つけられない。ただの、いつもと同じ雨の夜だ。
『……ねえ、航。あの人、誰かに合図してるみたい』
姉さんの声が、少しだけ緊張を帯びる。
『引き継ぎデータによると、これは党ドクトリンが制定されるよりずっと古い、非公式の通信プロトコルの一つらしいわ。システムに記録を残さず、特定の情報をやり取りするための……』
党。その言葉を聞くと、いつも背筋が冷たくなる。
やがて男は満足したのか、すっと窓から離れると、僕の方を一度も見ずにエレベーターホールへと消えていった。ビニール傘が残した小さな水たまりだけが、彼がここにいた証拠だった。
僕はモップを手に、その水たまりを拭きに行った。
水の跡が消えかけた床に、何か小さなものが落ちているのに気づく。
男が置いていった、あの駐輪場の紙札だった。
拾い上げると、湿って少しふやけている。何気なく、裏返してみた。
そこには、震えるような細い字で、こう書かれていた。
『次は君だ』