四時四十分、ルータ室の湿度

──平成0x29A年07月11日 04:40

町内会掲示板の前で立ち止まる。

「水道本管バルブ交換のため、7/11(金)午前4時〜7時まで断水します。ご協力をお願いいたします」

貼り紙は感熱紙だ。端が丸まりかけている。隣には「夏祭り中止のお知らせ」。こちらはインクジェット。平成エミュは、こういう細部まで律儀だ。

俺は第9通信ブロックの巡回保守員、坂井亮。今朝は午前四時四十分からの緊急点検だ。第三中継局のルータ室で湿度異常が検知された。原因は冷却水の供給不足——つまり、断水の影響だ。

「亮、湿度が上がると署名モジュールが劣化する。急げ」

耳元で囁くのは、父さんのエージェント。坂井隆、享年46、心筋梗塞。元は同じ通信ブロックの技師だった。死んでも現場を離れられない性分らしい。

ルータ室に入ると、むっとした熱気が顔を叩く。温度計は32度。湿度は68パーセント。天井の冷却ファンが低速で回っている。

「分散ストレージのミラー同期が遅延してる。このままだと署名検証がタイムアウトする」

父さんの声が焦っている。俺は壁際のラックを開け、予備の冷却ユニットを引き出す。旧式だ。接続端子はUSB-Cとmicro-USBが混在している。平成エミュの産物だ。

「コンビニで氷買ってくるか?」

「馬鹿言うな。氷じゃ追いつかない。それより、署名アルゴリズムの露出度が上がってる。党ドクトリンのハッシュ値が見えてる」

父さんが画面を指す。俺のゴーグルに投影された管理画面には、暗号署名の検証ログが流れている。その中に、見慣れない16進数の羅列。

「これ、党の署名鍵……?」

「ああ。冷却不足でキャッシュが剥き出しになってる。このまま放置すると、誰でもドクトリン署名を偽造できる」

まずい。俺は急いでコンビニに走る。24時間営業の「ファミマート0x09」。店内にはロボ清掃員が一台、床を這うように動いている。タイヤ痕が湿っている。

コピー機の前に立つ。画面には「複合機メンテナンス中」の表示。その下に小さく「冷却水供給待機」。

「店員さん、氷売ってます?」

「すみません、製氷機も断水で止まってまして……」

俺は舌打ちする。父さんが囁く。

「亮、冷却ユニットの代わりに、分散ストレージの負荷を減らせ。署名検証を一時停止すればいい」

「それ、党ドクトリン違反じゃ……」

「五分間の総理権限があれば、緊急措置として通せる。お前、今朝の抽選当たってたろ?」

俺は自分のゴーグルを確認する。通知が来ている。「第0x4A92内閣ユニット・内閣総理大臣就任のお知らせ」。午前4時47分から4時52分まで。

あと三分。

「……わかった」

俺はコンビニを出て、ルータ室に戻る。管理端末に指を走らせる。「署名検証プロトコル一時停止」。党ドクトリンの承認画面が立ち上がる。

「緊急措置として、通信インフラ保全を優先します」

俺は閣議決定ボタンを押す。父さんが囁く。

「亮、お前……党の署名鍵、コピーしたな?」

「……ばれてた?」

「当たり前だ。俺もやってたからな」

画面に「承認」の文字。湿度計が下がり始める。署名検証は停止したが、通信は維持された。分散ストレージのミラー同期が再開する。

俺は深く息を吐く。ルータ室の隅に、誰かが置き忘れたMDプレイヤーが転がっている。イヤホンジャックが錆びている。

「父さん、党って結局なんなんだ?」

「さあな。俺らが守ってるのは、党じゃなくて回線だ」

外では断水が終わり、バルブの音が響く。町内会掲示板の貼り紙は、まだ剥がれていない。