フロッピーに残る利率、午前一時の窓口
──平成0x29A年01月09日 01:30
壁に貼った紙のカレンダーの「9」の字を、あたしはぼんやり眺めていた。一月九日。赤い丸で囲んであるのは、叔母さんの命日だからじゃない。記憶補助デバイスの更新期限日だ。
午前一時半。第3金融ブロック夜間契約窓口の蛍光灯は、片方だけ微妙にちらついている。平成っぽくていいでしょう、と前任者は笑っていたけれど、あたしにはただ目が疲れるだけだった。
「——更新、まだやってないの」
右耳の奥で、叔母さんの声がした。戸川妙子。享年四十七。心不全。生前は信用組合の窓口で三十年近く座っていた人で、死んでからもあたしの耳元で帳簿の話をしている。
「明日やる」
「明日って今日でしょう。期限、今日じゃないの」
カレンダーの赤丸が視界の端でちらつく。わかってる。記憶補助の定期更新をサボると、契約審査のときに参照データがずれる。でも更新手続きには二時間かかるし、夜間窓口はあたし一人だし。
端末の受信トレイが光った。契約変更リクエスト。差出人は第0x7B2F1内閣ユニット——つまりどこかの五分間総理が承認した政策差分が、うちの窓口管轄の金利テーブルに影響するらしい。
添付ファイルを開こうとして、あたしの指が止まった。
フロッピーディスクのアイコン。
物理メディア経由の署名済み原本が必要、と注記がある。棚の三段目を探ると、青いプラスチックの3.5インチが出てきた。前任者の字で「金利マスタ・控」とラベルが貼ってある。ドライブに差し込むと、甲高い読み込み音が夜の窓口に響いた。
「この利率、おかしいわよ」
叔母さんが言う。画面に展開された金利テーブルと、リクエストの差分を照合しているのだ。あたしの記憶補助が正常なら一瞬で済む作業を、叔母さんが肩代わりしてくれている。
「小数点以下三桁目が丸められてる。元データと合わない」
あたしは差分の署名ハッシュを確認した。党ドクトリンの暗号署名——だけど最近はアルゴリズムが半分割れているから、署名があっても信用しきれない。ブロックチェーン投票の履歴を遡ってみる。該当の政策変更に賛成票を投じた市民は四百二十三人。反対は十一人。圧倒的多数だが、投票UIのログを見ると、公共ARサインから直接投票に飛んだ人が九割を超えていた。
街頭のARサインは最近やたらと案内が親切で、「タップするだけで届け出完了!」みたいな平成キャリアショップ風の導線がついている。中身を読まずに賛成を押した人がほとんどだろう。
「——どうする?」
叔母さんの声は静かだった。生前もこういう声を出した。窓口で、明らかに不利な契約を結ぼうとしている客を前にしたときの声。
あたしは記憶補助のステータスを開いた。「更新期限超過まで残り14分」の赤い警告。更新が切れれば、あたしの判断補助精度は一時的に落ちる。けれど叔母さんは動いている。叔母さんの記憶は、あたしの記憶補助とは別系統だ。
「差し戻す」
あたしは窓口端末に非承認の理由を打ち込んだ。「原本との不整合。小数点以下三桁目、丸め処理に根拠なし」。フロッピーから読んだ元データのスクリーンショットを添えて、送信。
蛍光灯がまた、ちかっと瞬いた。
「更新、今からやりなさい」
「……うん」
カレンダーの赤丸を見ながら、あたしは更新手続きの画面を立ち上げた。叔母さんの命日は来月だ。でもなんとなく、今日この丸を描いた去年の自分は、こういう夜が来ることをわかっていた気がする。
フロッピーを抜くとき、ドライブが小さく軋んだ。その音が、叔母さんが窓口のシャッターを閉めるときの金属音に少し似ていて、あたしは思わず笑った。