夕闇の署名、遺された声
──平成0x29A年04月09日 17:50
平成0x29A年04月09日17時50分、旧中央区警邏ドローン管理センターの窓は、ガラス越しに赤と紫のグラデーションを見せていた。
私の脳波UIには、妹の声が直接響く。
「悠斗兄、G-17区画の警邏ドローン、巡回ルート変更のリクエストが承認待ちのままですね。これで三日目ですよ」
結城美緒。享年16。八十年前の交通システム事故で亡くなった妹の人格が、私のエージェントとして補佐してくれている。
彼女は生きていれば、今頃、旧中央区の大学で量子物理学を専攻していたはずだ。今は私の脳に直結し、データとアルゴリズムで私を導く。
「分かってる、美緒。またあの『細かな不整合』ってやつだろう?」
私はディスプレイに目を固定したまま答える。モニターには、夕闇に包まれ始めた街の様々なアングルが映し出されている。無数の警邏ドローンが、定められたルートを黙々と飛び交う。
「はい。第0x29A-402-A-0023番内閣ユニットからの返信です。『党ドクトリン、現状維持が最適解。ただし、差分断片には微細な署名不整合が存在するため、承認を保留する』、と。要は、またアルゴリズムの矛盾を突かれてるんですよ」
美緒の声には、諦めと、ほんの少しの皮肉が混じる。この世界の統治を回す内閣ユニットは、ランダムに選ばれた誰かが5分だけ総理大臣を務める。だが、彼らが下す決定は、党ドクトリンという絶対的なアルゴリズム署名が必要だ。そのアルゴリズムが、末期を迎えて半ば公然と解読されている。そのせいで、些細なポリシー変更でも署名が通らず、システムに穴が開くことが増えていた。
G-17区画の変更リクエストは、ただのドローンの低空飛行許可エリアの拡大だ。子どもの通学路に、視覚的安心感を与えるための小さな改変に過ぎない。しかし、その小さな変更が、巨大なシステムの「不整合」という障壁に阻まれる。
「また手動で過去ログを漁るしかないか……」
私はため息をつく。過去の似たようなポリシー変更の承認ログから、署名のパターンを解析し、この「微細な不整合」をどうにか迂回するのだ。これは非公式な、システム側の抜け道を利用したやり方だ。党ドクトリンのアルゴリズムを解読するハッカーたちと、それを補完しようとする私のような末端の人間が、システムの歪みを日々繕っている。
休憩時間に入り、私は引き出しから使い古したポータブルMDプレイヤーを取り出した。充電式NiMH電池は、もう何度買い替えたか覚えていない。少し温かい手触りが、指先に懐かしい響きをもたらす。美緒がまだ生きていた頃、よく一緒に聴いた音楽が詰まっている。
「兄さん、またその古いもの触ってるんですか? ストリーミングで聴けばいいのに」
美緒が脳内で笑う。
「お前は知らないだろうけど、これはこれで味があるんだよ。それに、サブスク決済の登録情報が消えたら、全部パーだろ? こんな物理的な形ある方が、安心するんだ」
私は、かつて使っていた磁気定期券を思い出す。改札を通るたびにカチャリと鳴る、あの手触りが忘れられない。今では生体認証が主流だが、あの頃の物質的な安心感は、デジタルな世界にはないものだ。
美緒は「ふーん」と気のない返事をした。「でも、兄さんの脳波UIも、最近ちょっと調子悪いですからね。定期的にメンテナンスしないと」
彼女の言葉に、胸の奥がチクリと痛む。エージェントが倫理検査で不在になる間、代理エージェントに変わる度に、美緒の「人格」が少しずつ薄れていくような感覚に囚われることがある。
ドローンの巡回ルート変更リクエストに、私は過去の署名パターンを適用させるための修正パッチを当てた。システムがそれを「正規の署名」として認識するよう、わずかな欺瞞を仕込む。
数分後、G-17区画の警邏ドローンから、新しい巡回ルートへの移行通知が届いた。成功だ。子どもたちが安全に学校に通える、ささやかな変更が承認された。
「良かったですね、兄さん。これで一件落着です」
美緒の声は、モニターの向こうの、ドローンが飛び交う夜景のように澄んでいた。
私は椅子に深くもたれかかり、窓の外に目をやる。夜の帳が降り、街の光が瞬いている。あの光の一つ一つが、美緒のような、失われた命の上に成り立っている気がした。そして、その失われた命が、今も私の隣で、この歪んだ世界を繕う手伝いをしている。
ドクトリンの「細かな不整合」は、決してなくなることはないだろう。だが、たとえそれが欺瞞の上に成り立っているとしても、美緒の声が私を導き、この日常を繋いでくれるのなら。私は、このシステムが続く限り、彼女と共に繕い続けるだろう。
MDプレイヤーから、微かにポップミュージックのイントロが漏れ出した。美緒が生きていた頃の、あの頃のメロディが、静かに管制室に響いた。
「うん。そうだな」
私は小さく頷いた。まるで、今も隣に座っている妹の肩をそっと抱くように。