元日の不在票と、五分間の緊急署名

──平成0x29A年01月01日 14:10

「あけましておめでとう、航。今年も安全運転でね」
耳の裏に埋め込まれたデバイスから、母さんの明るい声が響く。新田佳乃、享年五十二。生前はヤクルトレディとして街を駆け回っていた彼女は、エージェントになっても相変わらず世話焼きだ。

平成0x29A年一月一日、十四時十分。空は低く垂れ込め、偽物の雪が時折フロントガラスを叩く。私は軽トラを模した電気配送車のシートで、ガラケー型の端末を叩いていた。画面には「謹賀新年」の文字と、二十年前の解像度で描かれた門松のドット絵が踊っている。

「母さん、元日から仕事なんて、平成エミュレーションも大概にしてほしいよ」
「いいじゃない、お正月らしくて。ほら、次は第十四居住棟の三〇二号室。指定時間は十四時から十六時よ」

団地の入り口に車を停める。この時代の集合住宅は、壁一面が「分散ストレージ」になっていて、ドローンや配達員が放り込んだ荷物が、内部の真空搬送路を通って各戸の玄関裏まで届く仕組みだ。だが、三〇二号室の投入口の前で立ち往生した。端末が「量子署名エラー:プロトコル不整合」という無機質な赤文字を吐き出している。

「またか。年末からこの区画のストレージ、挙動がおかしいんだ」
「ドクトリンの更新が遅れてるのかもね。ほら、足元。ガス検針票が落ちてるわよ」
足元を見ると、感熱紙のガス検針票が風に舞っていた。デジタル全盛のこの時代に、わざわざ紙でポスティングされる検針票。党ドクトリンが「平成的風景」として定義したノイズの一つだ。

その時、視界の端に「緊急:第0x882F内閣ユニット・総理大臣任期開始」の通知がポップアップした。カウントダウンは五分。私の意識の一部が、強制的に閣議決定のアルゴリズムへと接続される。
「航、きたわよ! 五分間の天下ね」
「最悪のタイミングだ。母さん、今のリクエスト一覧を出して」
視界に無数の政策変更リクエストが流れる。そのほとんどが『お年玉増額の暗号署名』や『初売りの行列制限解除』といった、この時期特有の雑多な差分だ。その中に、一つだけ赤いフラグが立っているものがあった。

『第十四居住棟・物流ストレージ管理プロトコルの量子署名再定義』

「これだ」と私は直感した。このリクエストを承認しなければ、目の前のストレージは動かない。だが、承認には「党」のドクトリンに基づいた、複雑な暗号署名が必要になる。私は配送荷物の一つを手に取った。品名欄には『中古・PlayStation 2(SCPH-39000)本体』とある。宛先は、よく知っている名前だった。

「これ、高橋さんの荷物だ」
高橋さんは、この団地に住む独り身の老人だ。遺伝子ネットワークの端っこに連なる、古い皇室遺伝子を少しだけ色濃く継いでいるという噂があるが、本人はいたって普通の、レトロゲーム好きのおじいさんだ。

「航、あと三分よ。承認ボタン、押しちゃいなさい」
母さんの声に急かされ、私は端末の決定キーを強く叩いた。私の生体IDが量子署名としてネットワークに刻まれ、数十万の並行内閣の一つとして、この瞬間の日本の「正解」を上書きする。カシャリ、と目の前のストレージ投入口が開いた。

荷物を滑り込ませ、私はふと、高橋さんの部屋のインターホンを押した。本来はストレージに入れれば済む話だが、何となく、声が聞きたかった。
「はい、どなた」
「明けましておめでとうございます。配送の新田です。今、PS2の本体、ストレージに入れました」
「おお、新田くんか。わざわざ悪いね。これでやっと『鬼武者』ができるよ」
スピーカー越しに、高橋さんの嬉しそうな声が聞こえる。

任期終了まで、あと三十秒。私はふと、胸の中に溜まっていた言葉を口にしていた。
「あの、高橋さん。実は私、さっきの五分間だけ総理大臣だったんです。あなたのストレージ、私が直しました」
「ははは、それは頼もしいな。じゃあ、次の五分間は、私のために平和な一年にしてくれないか」

通信が切れる。十四時十五分。私の任期は終わった。ただの配達員に戻った私は、冷たい冬の空気を吸い込んだ。隣の棟の窓から、古いテレビゲームの起動音が聞こえたような気がした。
「航、今の告白、ちょっと格好良かったわよ」
耳の裏で、母さんがクスクスと笑った。