乗客名簿のない車両、あるいは周波数の向こう側

──平成0x29A年 日時不明

 運転席の生体認証パネルが、また赤く点滅している。

 右手の親指を押し当てる。拒否。人差し指。拒否。掌ごと押しつけると、パネルが低い唸りを上げて、かろうじて緑に変わった。

「認証パターン、前回照合から差分〇・七パーセント。記憶補助デバイスの更新推奨日を——」

「推奨日がわからないんだよ、姉ちゃん」

 エージェントの声が途切れた。少しの間。それから姉の口調で、けれど姉よりわずかに遅い拍子で返ってくる。

「……記録欠損。日付の参照先が見つからない。ごめんね、勇樹」

 ダッシュボードの時刻表示は数字がぐるぐる回ったまま止まらない。曜日は空欄。深夜だということだけは、フロントガラスの向こうの暗さでわかる。旧環状八号線を走る循環バスの最終便。乗客は、たぶん三人。バックミラー越しに影が揺れている。

 カーステレオからは深夜ラジオが流れている。FMとAMが混線したような、ざらついた音質。パーソナリティが読むハガキの内容は妙に古くて、「テレホーダイの時間帯に好きな子のホームページを見ています」とか言っている。それに続けてリスナー投票の告知が入る。

「番組への感想は、ブロックチェーン投票システム経由で。投票コードは番組サイト、もしくはiモードメニューの『ラジオ深夜便エミュ』から取得できます」

 誰が投票するんだろう。でもあの番組、投票数がいつも異様に多い。票がチェーンに刻まれるたびに微細な合意形成が走って、どこかの内閣ユニットの政策レビューに組み込まれるという噂を聞いたことがある。ラジオのリスナー投票が閣議の参考資料になる世界。姉が生きていたら笑っただろうか。

 バスが停留所に着く。誰も降りない。誰も乗らない。ドアを開けて、閉める。手順通り。

 運転席の脇に挟んであるバインダーから、手書きの領収書を一枚抜く。深夜手当の実費精算用。ボールペンで日付の欄に手を伸ばして、止まる。

 日付がわからない。

「姉ちゃん、今日って——」

「記憶補助のタイムスタンプが巡回してる。外部参照も応答なし。たぶん、記憶補助の定期更新が走るはずだった日を跨いでるんだけど、更新自体が来てない」

 領収書の日付欄を空白のまま、金額だけ書いた。三千四百円。営業所に戻れば誰かが日付を埋めてくれるだろう。たぶん。

 生体認証パネルがまた赤く点滅し始めた。さっきより間隔が短い。指紋パターンの自己参照値がずれている、と姉の声が言う。記憶補助が更新されないまま走り続けると、認証の閾値を割り込む可能性がある、と。

「つまり?」

「次の認証で弾かれたら、運転できなくなる」

 バックミラーを見る。乗客の影が揺れている。あの人たちを降ろす停留所は、まだ四つ先だ。

 ラジオのパーソナリティが言う。「さて、次の曲はリクエスト。ペンネーム『日付のない乗客』さんから」

 俺はハンドルを握り直す。生体認証パネルの赤い光が、点滅の速度を上げている。

 四つ先まで、持ってくれ。

 姉は何も言わなかった。言わないときの姉は、生きていた頃もそうだった。答えがないときは、黙る人だった。

 バスは暗い道を走り続けている。時刻表示の数字は、まだ回っている。