誤訳されるクリックホイール
──平成0x29A年03月22日 14:50
第4軌道駅の構内には、常に微弱な電子音が満ちている。私の働く売店「K-Shop」の目の前にあるバイオメトリック改札が、通過する市民の虹彩と静脈を読み取り、許可のチャイムを鳴らし続けているからだ。
「いらっしゃいませ」
私は反射的に声を出す。視界の端に表示された時刻は、平成0x29A年03月22日 14:50。シフト終了まであと一時間。
『対象接近。敵対的意図の確率は不明ですが、装備品に注意が必要です』
脳内で無機質な合成音声が響く。いつもの叔母さん――相沢美由紀のエージェントではない。彼女は今週、定期的な倫理摩耗検査のためセンターに預けられている。代わりに支給されたこの「代理エージェント・v902」は、感情がない上に文脈解釈が絶望的に下手だった。
カウンターに立ったのは、ヘッドホンを首にかけた若い男だった。手には白い長方形のデバイス。平成初期の聖遺物、iPodだ。最近、第9学術区あたりで流行っているらしいレトロ・ガジェット。
「これ、お願いします」
男が差し出したのは、緑色の表紙の冊子だった。
『警告。対象物体は「通帳」と識別されます。旧金融ドクトリンにおける債務の鎖、あるいは魂の収支記録簿です。接触には党承認レベル3が必要です』
「……ポイントの記帳ですね。お預かりします」
私は代理エージェントの戯言を無視して、磁気ストライプをリーダーに通した。ジジジ、とプリンターが行を印字する振動が指に伝わる。本来は電子データで済む話を、わざわざ物理的な紙の通帳に印字してありがたがるのが、この「平成エミュレーション」社会の不可解な作法だ。
「あと、これも」
男はiPodの画面を見せながら、スナック菓子を一つ置いた。袋の表面に貼られた近傍通信タグが、レジのセンサーに反応して微弱な光を放つ。
『緊急。近接領域にて未登録の暗号通信を傍受。タグ内部の残存思念が「賞味期限」という名の死の宣告を叫んでいます。直ちに廃棄を――』
「108円になります」
私は頭痛をこらえながらレジを打つ。代理エージェントは「賞味期限」をどう翻訳すれば「死の宣告」と解釈するのか。叔母さんなら「あらいやだ、これ美味しいのよねえ」とでも言うところだ。
男はiPodの白い円形の操作盤――クリックホイールを親指でくるくると回し、画面に表示されたバーコードを提示した。カチカチカチ、という乾いた操作音が、改札の電子音の隙間に心地よく響く。
「支払いは、党発行クーポンで」
「はい、スキャンします」
スキャナーをかざすと、iPodのバックライトがふわりと明るくなった。その瞬間、代理エージェントが叫んだ。
『検出! デバイスより、回転による永劫回帰の祈りが送信されています。これは宗教的儀式です。直ちに第0x33内閣ユニットへ通報を――』
私は意識的に脳内接続をミュートし、決済完了のボタンを押した。レジが軽快な音を立て、通帳を男に返す。
「ありがとうございました」
男はiPodをポケットにしまい、クリックホイールをもう一度親指で撫でてから、改札の向こうへ消えていった。バイオメトリック改札が彼を認証し、ゲートが開く。
店には私だけが残された。代理エージェントの警告ログが視界の隅で赤く点滅しているが、私の指先には、通帳の紙のざらつきと、あのクリックホイールが回る確かな感触の想像だけが残っていた。
世界は誤訳だらけだ。でも、この指先に触れる物理的な感触だけは、どんなアルゴリズムも書き換えられない。
私は一つ息を吐き、次の客を待った。