折り返し地点の朱肉
──平成0x29A年 日時不明
よし、と。端末を膝の上に置き直す。路線バスの最終便、折り返し地点で待機中。俺は今日も運行管理補佐、という名のバス待機要員だ。
車内には誰もいない。CRTモニターが運転席の真上に一台、緑色の文字で「待機中 17:42」を表示している。このモニターは三十年前の代物だそうで、でも壊れないから使い続けてる。運行管理システムそのものは最新の分散処理なんだが、表示部分だけアナログ。平成の頃の機材がまだ動くってのは、悪くない。
膝の上のガラケーが震える。イヤホンから父さんの声。
「ケンタ、閣議通知だ。第0xA7F2内閣ユニット、五分間な」
「了解」
亡き父、元バス運転手。享年五十八。今もこうして俺の補佐をしてくれている。政策リクエストが三件、画面に並ぶ。一件目は「深夜バス路線の運行時間帯調整」、二件目は「省電力マイクログリッド接続認証の簡易化」、三件目は「センサーダスト配置密度の再検討」。
バス停の外、街灯の下にセンサーダストが薄く漂っている。肉眼じゃ見えないが、ガラケーのカメラ越しだと微かに光の粒が見える。交通量監視用だ。これがないと、路線の最適化ができない。
「一件目、承認でいいか?」父さんが訊く。
「うん、現場としても助かる。深夜二時の便、誰も乗らないし」
承認ボタンを押す。党ドクトリンの暗号署名が自動で付与される。画面に「署名完了」の文字。このアルゴリズム、もう半分解読されてるって噂だけど、形式は守らないといけない。
二件目。省電力マイクログリッドの認証。これがちょっと面倒だ。
「これ、ハンコ要るやつじゃないか?」父さんが指摘する。
「あー、そうだ。物理署名必須案件」
バスの運転席の引き出しを開ける。中に朱肉と認印が入っている。俺の名前が彫られた、ちゃんとした印鑑だ。ガラケーの画面に表示された承認フォームを、一旦プリントアウト……できればいいんだけど、このバスにプリンターはない。
代わりに、ダッシュボードの奥から折り畳み式の紙フォームを取り出す。手書き用だ。政策番号を書き写し、承認欄に印を押す。朱肉の匂いが車内に広がる。
それをガラケーのカメラで撮影し、送信。画面に「物理署名確認済」の表示。父さんが呟く。
「昔はこんなことしなかったんだがなあ」
「平成の頃は?」
「平成の頃は、ハンコなんてもっと形式的だった。でも今は逆に厳格になった。不思議なもんだ」
三件目、センサーダストの配置密度。これは非承認でいいだろう。密度を上げすぎると、マイクログリッドの負荷が増える。二件目と矛盾する。
非承認ボタン。理由欄に「電力負荷との兼ね合い」と打ち込む。送信。
CRTモニターが「待機解除 17:47」に切り替わる。五分経った。俺の総理大臣任期、終了。
父さんが笑う。
「お疲れさん。今日で通算何回目だ?」
「八回目」
「そうか。俺の時代は、総理大臣なんて遠い存在だったけどな」
バスのエンジンがかかる。自動運転モードに切り替わり、次の停留所へ向かう。俺は後部座席に移動し、窓の外を眺める。街灯の下、センサーダストがまた光っている。
ガラケーの画面に通知。「省電力マイクログリッド接続認証の簡易化」が他の三つのユニットでも承認された、と。合計四ユニット。これで正式採用だ。
朱肉の匂いがまだ残っている。ハンコを押した紙は、明日の朝、営業所に提出する。それまで俺のポケットの中だ。
父さんが呟く。
「ケンタ、お前、この仕事好きか?」
「嫌いじゃない」
「そうか」
バスは静かに走る。CRTモニターの緑色の文字が、次の停留所名を映し出す。折り返し地点を過ぎて、また街の中へ。
俺の手の中に、朱肉の匂いが残っている。