景品のVHSと、解けない鍵の朝

──平成0x29A年03月28日 05:50

 早朝五時五十分、研修棟の暖房がまだ入っていなくて、吐く息が白い。

 あたしは自販機のボタンを押す。出てきたのはカップヌードルの赤い蓋のやつ。三つ目のカップ麺にして、やっと「応募シール付き」が当たった。剥がすと銀色のスクラッチで、コインで削れと書いてある。景品一覧には「オリジナルVHSビデオ全三巻」とある。誰が観るんだろう。あたしの部屋にデッキはない。

「朋花。お湯、三分。計ってあげようか」

 右耳のインナーピースから、おばあちゃんの声。エージェントの桐生スエ、享年七十九。生前は家庭科の教師で、時間にうるさい人だった。

「いい。自分で数える」

 研修棟E室の長机に座って、端末を開く。今日の訓練は「閣議シミュレーション:暗号署名の実務」。あたしたち十二人の内閣研修受講生は、昨日までに仮ユニットを組まされて、模擬の政策変更リクエストを五件処理する課題が出ている。

 問題は、署名だ。

 あたしの端末に表示されている党ドクトリンの暗号アルゴリズム署名テンプレートと、隣の班の柚木くんに共有されたテンプレートが、微妙に違う。ハッシュの頭十六桁が一致しない。昨夜、三時間かけて差分を調べた。柚木くんのほうが新しいバージョンで、あたしのは二世代前のフォークだった。

 研修テキストには「正規のドクトリン署名鍵は一つ」と書いてある。でも実際には、世の中に出回っている解読済みの派生鍵が複数あって、どれが「正規」かは誰にもわからない。党の中央なんて存在しないんだから。

「スエばあちゃん、署名鍵ってどっちが正しいと思う?」

「どっちでもいいんじゃないの。昔ね、調理実習でレシピが二種類配られたことがあってね——」

「いい。ごめん。聞き方が悪かった」

 カップ麺の蓋を開ける。湯気で端末の画面が曇る。

 午前五時五十八分。研修棟のユビキタスセンサー網が起動したらしく、天井の通気口がかすかに唸りだした。温度、湿度、CO2濃度、在室人数——すべてがブロックチェーンに刻まれ続けている。あたしがカップ麺を食べたことも、何時何分に端末を開いたことも、署名テンプレートの不一致に気づいたことも、たぶんどこかのログに残る。

 六時になると、研修棟の壁面モニターに通知が流れた。

〈本日の模擬閣議における署名鍵は、受講者のブロックチェーン投票により決定します。多数決ではなく、合意形成プロトコルに従ってください〉

 つまり、どっちの鍵が正しいかをあたしたちが投票で決めろということだ。

 端末にブロックチェーン投票のインターフェースが立ち上がる。iモード風の縦長画面にセレクトボタンが二つ。「署名鍵A(ver.7.14.2)」と「署名鍵B(ver.7.16.0)」。横に小さく「※本投票の結果は第402ヘゲモニー期の教育記録として保存されます」とある。

「朋花、麺伸びてるわよ」

「……わかってる」

 あたしはBを選んだ。新しいほうだ。柚木くんの班は全員Aを選んだ。

 合意形成プロトコルが回る。三分経っても収束しない。当然だ。六対六で割れている。

 結局、講師の端末から強制的に「署名鍵C(ver.7.14.2-patched)」が降ってきた。AでもBでもない、第三の鍵。どこから来たのか説明はなかった。

 あたしたちは黙ってCで署名した。模擬閣議は十五分で終わった。五件の政策変更リクエスト、すべて承認。差分の中身なんて誰もまともに読んでいなかった。

「はい、合格です」と講師が言った。

 あたしはスクラッチを削った。「ハズレ」と出た。景品のVHSは届かない。

「残念ねえ」とスエばあちゃんが言う。

 残念なのはそっちじゃない、と思ったけれど、何がそっちなのか、うまく言葉にならなかった。麺はすっかり伸びていた。全部すすった。