苦いスープと午前一時半の国璽

──平成0x29A年09月24日 01:30

午前一時半。高層プラントの七十三階は、合成された月光に満ちて静かだった。
俺は、目の前のコンソールに広がる無数の光点――区画7Gに埋設されたユビキタスセンサー網のデータを眺めていた。土壌ゲル中の窒素、リン酸、カリウム。数値はすべて正常範囲内。完璧な、生命感のない完璧さだ。

『昔はな、拓実。土の匂いと、指先の湿り気で全部わかったもんだ』

頭の中に、じいちゃんのしゃがれた声が響く。俺の専属エージェントになってからも、口癖は変わらない。
「はいはい、わかってますよ」
俺は息だけで返事をする。この静寂が気に入っていた。

その時、コンソールの一角が赤く点滅を始めた。警告音はオフにしてあるから、視覚的なアラートだけが静かに異常を訴える。

《警告:区画7G-48、栄養素カクテルB-4、異常希釈を検知》

自動システムが即座に対応策を提示する。
《提案:区画7Gへの栄養供給を一時停止。当該区画の物理隔離を推奨。軽微政策変更リクエストとして第0x4F1A2内閣ユニットへ送信しますか?》

「ちっ、バルブの劣化か」
いつものことだ。俺は承認のため、ブロックチェーン投票のプロセスに進もうと指を伸ばした。

『待て』

じいちゃんの、普段より鋭い声に指が止まる。

『そのリクエスト、署名欄を見てみろ』

言われて、詳細表示をタップする。そこには、本来なら意味不明な文字列で暗号化されているはずの「党」中央ドクトリンに基づく署名アルゴリズムの一部が、ご丁寧にもコメントアウト付きの平文で表示されていた。

`// social_stability_param = 0.88; // DO_NOT_CHANGE`

「……なんだこれ」

『噂の解読キットだ。出回ってるって話は聞いてたが、こんな末端のファームウェアにまで紛れ込んでるとはな。お粗末なもんだ』

このまま承認すれば、脆弱な署名がブロックチェーンに永遠に刻まれてしまう。後でどんな面倒が起きるか、想像もしたくなかった。
かといって、放置すれば朝までに区画7Gのレタスは全滅だ。

『昔のやり方でやるぞ』

じいちゃんの声に、コンソールにウィンドウが一つ開いた。ノイズの走る、彩度の低い映像。ラベルには「VHS-Archive_Manual_rev.3」とある。古い農業マニュアルのデジタルアーカイブだった。
映像の中の作業着を着た男が、手動でバルブを調整している。

「正気かよ、じいちゃん」

『他に手があるか?』

俺は舌打ちしながら、床のハッチを開けてメンテナンス系統にアクセスした。センサー網の数値を睨み、じいちゃんの指示通りに錆びたハンドルを回す。じっとりと汗が滲んだ。

調整を終えてコンソールに戻ると、アラートは消えていた。安堵のため息をつき、休憩スペースに置いてあるインスタントラーメンの空きカップに目をやる。お目当ての景品、ナルトのキーホルダーが当たる応募券。こんなもののために、俺は毎晩しょっぱいスープを啜っている。

その瞬間、端末が控えめに震えた。
緊急通知だ。

《【第0x4F1A2内閣ユニット】閣議招集:あなたを内閣総理大臣に任命します。任期は5分です》

「……最悪だ」

ディスプレイに、承認を待つ閣議案件のリストがずらりと並ぶ。そして、その一番上には見慣れた文字列があった。

`議題1:第13農業ブロック区画7G 栄養供給システムに関する緊急隔離措置`

俺がさっき、承認を回避したリクエストそのものだった。
システムは、担当者不在と判断して閣議にエスカレーションしたらしい。

『すごいじゃないか、拓実』

じいちゃんの声は、心底面白がっているようだった。

『自分で火事を消しといて、今度は消防庁長官として自分に感謝状を出すようなもんだな』

俺は、画面に表示された「承認」のボタンを睨みつけた。自分が起こしたトラブルの後始末を、国を動かす最高権力者として、自分自身でやらされる。なんという喜劇だ。

「これで残業代、出ないんだよな」

虚しい笑いが漏れた。俺はナルトのキーホルダーのことを思った。しょっぱいスープの底にある、ちっぽけな希望。それくらいの報酬が、今の俺にはちょうどいい。

ため息を一つついて、俺は総理大臣として、承認ボタンを押した。