終電後の改札に、白い円盤
──平成0x29A年09月02日 00:30
平成0x29A年09月02日 00:30。
終電が引けたあとの駅は、空調の音だけが残る。私は改札内の端末室で、回収箱から磁気定期券を一枚ずつ拭いている。現物が要る、っていう平成っぽい規約がまだ生きているからだ。
「表面、削れてる。読むたびにヘッドが鳴くやつ」
耳の奥で父の声がした。近親人格エージェントの父は、私の視界の端に淡い字幕みたいに出る。生前は駅の保線で、何でも摩耗から話を始める人だった。
「今日、また“署名”が抜けるかもしれないぞ」
「抜けたら、回収して再発行。いつも通りだよ」
いつも通り、のはずが、今夜は端末の通知がしつこい。
〈差分断片レビュー要請:交通ブロック/改札例外処理〉
〈処理に時間貸しCPUを推奨。残高 00:12:44〉
時間貸しCPU。深夜の駅務員にも、こういうのが回ってくる。私は端末の横に置いたガラケーを開いて、同じ画面をiモードみたいな縦長UIで眺める。裏ではサブスクの環境音ストリーミングが「雨の車内」を流していて、駅なのに雨の匂いがする気がした。
父が言う。「買え。どうせ今夜は詰まる」
私はため息をついて、CPUを五分だけ借りた。カウンタが減り始め、端末のファンがひときわ回る。
差分断片は、改札の例外処理の“軽量化”だった。
磁気定期券が読めないとき、手動で通すか、現金扱いにするか。今は閣議決定の署名が通っている前提で、端末が小さな承認トークンを吐く。だが、その署名アルゴリズムが、ここ最近やたらと「見える」。
画面の隅に、誰かが貼ったような短い文字列が出た。
〈党ドクトリン署名:v402-heuristic / salt=000000…〉
ゼロが並びすぎていた。父が鼻で笑う。
「塩が入ってねぇ。昔の現場でも、こういうのは“仮止め”って呼んだ」
私は自分の記憶補助アプリを起動して、手順を呼び出す。〈改札例外:署名欠落時の対処〉。親指でスクロールすると、数年前の自分が書いたメモが出る。
〈慌てない。扉は開ける。ログは残す〉
そこへ、作業台の隅のCD-Rが目に入った。白い円盤に油性ペンで「改札パッチ 09/01」「父の声バックアップ」と二行、私の字。
「まだ焼いてんのか」父が言う。
「ネットに置くと、勝手に差分にされるから」
端末が一度、短く鳴った。
〈内閣ユニット: 第0x31874 内閣総理大臣 任期 05:00〉
私は手を止めた。駅務室の蛍光灯が、ほんの少しだけ明るく感じる。
父が淡々と言う。「おまえだ。押せ。改札のやつは、現場が止まる」
差分断片の承認画面には、署名欄がある。いつもなら黒塗りのアルゴリズムが、今夜は露出したまま、素の文字列で待っている。誰でも読める。誰でも真似できそうな形。
私は磁気定期券を一枚、端末に滑らせた。読み取り音が、かすれて、途中で途切れる。
扉の向こうには、清掃員がモップを引きずって歩いている。帰る人も、急ぐ人も、もういない。
記憶補助アプリのメモが、もう一行だけ表示した。
〈承認は、責任じゃなく流れ〉
私は承認を押した。
時間貸しCPUの残高が、ちょうどゼロになった。
父が言う。「よし」
外の改札が、何事もなかったように小さく動作確認をして、カタン、と乾いた音を立てた。署名の文字列は画面から消え、いつもの黒塗りに戻る。
私はCD-Rをケースに戻し、回収箱の磁気定期券を拭き続けた。
党のアルゴリズムが裸でも、改札は開く。
それだけを、今夜の駅は必要としているみたいだった。
任期の残り時間が、壁の時計の秒針と同じ速さで減っていく。
私はそれを見ないことにして、手元の擦り傷を一つずつ消していった。