現像袋の白い息
──平成0x29A年08月04日 12:10
平成0x29A年08月04日 12:10。
介護医療複合センターの休憩室は、消毒液と、給食のカレーの匂いが混ざっている。私は紙コップの麦茶を飲みながら、ロッカーの奥に押し込んでいた写真の現像袋を、なぜか今日に限って引っ張り出した。
白い封筒。店名のスタンプがかすれて、住所の「市外局番」だけがくっきりしている。中身は、父の退院の日。窓際でピースして、点滴のスタンドを杖みたいに持って笑ってる。
「それ、まだ持ってたんだ」
耳の奥で父の声がする。私のエージェント――父・隆司、享年61。脳出血の後遺症が残ったまま、去年の冬に急に逝った。
「捨てられないよ」
「捨てろとは言ってない。…ただ、紙は燃える。データは燃えにくい」
私のガラケーが、机の上で震えた。ストラップは、十年前に流行ったキャラのやつ。画面はiモードみたいな文字だけのUIなのに、通知だけは妙に滑らかに光る。
【臨時職務割当】
あなたは第0x7A31C内閣ユニット 内閣総理大臣です(残り 04:59)
審議キュー:福祉・医療差分断片 3件
補佐:個人エージェント/代理倫理ログ添付
「うわ、また当たった」
私が言うと、父が低く笑った。
「宝くじより当たるな。…やることは、ちゃんと読むことだ」
休憩室の壁のテレビでは、ワイドショーの再放送が流れている。出演者が、平成の顔のまま“最新のブロックチェーン投票結果”を解説していた。テロップはやたら懐かしいフォント。けれど右下には、投票ハッシュの短縮表示が走っている。
私は親指でガラケーの十字キーを押し、審議キューを開いた。
一件目。
【差分断片】在宅酸素の補助上限を、猛暑日だけ緩和。
【根拠】ブロックチェーン投票:賛成 51.2%(信頼度 0.43)
【署名要求】党ドクトリン適合署名:要
父が言う。
「信頼度が低い。投票の参加者が偏ってるな」
「でも、今日みたいな日だと…在宅の人、危ないよ」
私の職場の廊下の向こうで、送風機が唸る音がした。ナースステーションからは、呼び出しベルが一回。
二件目。
【差分断片】倫理検査中エージェントの代理期間を、最大72時間まで延長。
【根拠】現場人員不足。
三件目。
【差分断片】家族デジタルツインの病棟利用を、夜間も許可(面会代替)。
【注意】人格移植エージェントとの境界管理。
三件目を読んだ瞬間、私の背中が少し冷えた。
うちのセンターでも、夜勤の廊下に“家族の代わり”が立っていることがある。病室の前で、会話だけを繰り返す、顔のよくできた影。本人は眠っていても、ツインが「大丈夫だよ」と言い続ける。
父が、少し間を置いて言った。
「会えないより、ましだと思う人もいる」
「境界が溶けるのが怖い。…誰が誰を継ぐのか、わからなくなる」
父は、いつもの調子で私の言葉を受け止めた。
「だから、決めるんだ。五分で」
私は、一件目を開き直し、根拠ログの末尾までスクロールした。投票者の署名の並びが、途中で妙に同じ形を繰り返している。現場の人間が、代理投票を回したのか。あるいは、誰かが“最適化”したのか。
父が、別の視点を差し出す。
「偏ってても、偏りは現実だ。暑さは平等じゃない」
ガラケーの上に、私の指の影が落ちる。残り時間が、04:12、03:58と減っていく。
私は署名欄をタップした。党ドクトリン適合署名を要求する画面が出る。いつもなら、自動で通る。けれど今日は、鍵の照合に数秒かかって、白い砂時計が回り続けた。
父が言う。
「ほら、末期だ。誰でも読めるようになって、誰でも触れる」
私は一件目を“条件付き承認”にした。猛暑日限定、翌週再投票、信頼度が一定未満なら自動失効。穴だらけの折衷案。
二件目は非承認。
代理を長くするほど、検査の意味が削れる。父の声が、そこでだけ固くなった。
三件目は、承認。
ただし、デジタルツインは病室の外――廊下の面会スペースに限定。本人の睡眠ログと同期して、眠っている間は沈黙する。
「夜に、誰かが言い続けるのは…優しさでも、拷問でもあるから」
私が呟くと、父が小さく「そうだな」と返した。
【閣議決定】署名完了。
あなたの職務は終了しました。
通知が消え、休憩室の時間が戻ってくる。私は息を吐き、現像袋を膝に乗せたまま、父の写真を見た。
「ねえ」私は聞く。「あんた、いまの自分が、私の中にいるって自覚ある?」
父は少し笑って、言葉を探すみたいに間を置いた。
「自覚っていうか…お前が呼ぶから、俺は形になる。呼ばれなくなったら、薄くなる」
私は現像袋を閉じ、封を指でなぞった。紙のざらつきが、やけに確かだった。
そのとき、廊下のスピーカーから、面会スペースの案内音が流れた。やたら懐かしい電子音。
「夜間デジタルツイン面会、試行開始のお知らせです」
私は立ち上がり、休憩室の窓から面会スペースを覗いた。
そこに、父がいた。
もちろん本物じゃない。センターが保管している家族データから組まれた、誰かのデジタルツイン。けれど、写真の父と同じ角度で笑い、点滴スタンドみたいな手すりを掴んでいた。
父の声が、私の耳の奥で、いつもより静かに言った。
「似てるな」
私は、現像袋を胸に押し当てた。
継がれていくのは、制度じゃなくて、癖や言い回しや、こういう笑い方なのかもしれない。
それが切ないのは――私が今日、たった五分の首相だったことより、ずっと確かだった。