夜更けの案内所、銀塩の匂い
──平成0x29A年09月25日 21:50
平成0x29A年09月25日、21:50。
港の観光インフォメーション窓口は、閉館五分前の湿った潮の匂いと、床ワックスの甘さが混ざっている。壁のポスターは「秋の夜景クルーズ」と、なぜか「ご当地ゆるキャラLINEスタンプ配信中」。その横に、フィルム写真の展示コーナーがある。
「ラストのお客様、入ります」
天井スピーカーが、合成音声で丁寧に告げた。丁寧すぎて、語尾が少し古い。
カウンターに来たのは、荷物少なめの来訪者だった。胸元のeペーパー端末には、薄い灰色で工程表が表示されている。タップすると、紙みたいに一瞬だけ“めくれ”のアニメが走る。
「すみません、これ……『平成の街並み撮影許可証』って、ここで出ます?」
端末をこちらに傾ける。QRの下に小さく、
《現像所連携:コンビニ複合機での複写提出を推奨》
とある。
私は内心でため息をついて、笑顔を作った。
「出ます。……ただ、提出が“複写”になってるんですよね。フィルムですか?」
来訪者はバッグから、金属の角が丸いカメラを出した。巻き上げレバーの音が、やけに大きく聞こえる。
「はい。銀塩が好きで。データだと味が、って」
私の耳元で、イヤーカフのエージェントが小声で割り込む。
『今どきフィルム持って観光? でも、好きは止められないよね』
祖母の声だ。享年七十六、元・街の写真屋。倫理検査は先月通ったばかりで、今日は機嫌がいい。
「撮影そのものは大丈夫です。ただ、この許可証の“写真添付”が厄介で……」
私は端末の画面を指でなぞり、手順を開いた。
《1. コンビニのコピー機でネガを複写(推奨)》
《2. その用紙をスキャンし、eペーパー端末に取り込み》
《3. 連鎖署名を待機(最大5分)》
来訪者が眉をひそめる。
「ネガをコピー機に……?」
『そりゃ無理だよ、ネガは透けるしサイズも合わない。昔は引き伸ばし機で……』
祖母が懐かしそうに言いかけて、途中で言葉を飲んだ。倫理規定の“過度な誘導”に触れるのを避けたのかもしれない。
「一応、近くのコンビニに“観光提出対応”のコピー機があります」
私は地図を印刷……しない。案内所のタブレットから、来訪者のeペーパー端末へ経路を送った。端末の画面が一瞬ちらつき、紙みたいに白くなってから、淡い線で道順が浮かぶ。
そのとき、私の胸ポケットが震えた。
《通知:あなたは第0x7F1C2内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました(残り 04:59)》
「……あ」
声に出さないつもりが漏れた。
来訪者は私の表情を見て、察したように笑う。
「五分のやつ、ですか」
『あんた、仕事中に引き受ける気?』
祖母が咎めるようで、でもどこか誇らしげに言う。
私は端末を伏せ、カウンター下で承認画面を開いた。政策差分が流れてくる。
《差分断片:観光許可証の写真添付方式を“フィルム対応”に更新》
《提出:ネガ複写→“現像済みプリントの複写”へ》
《理由:平成文化の再現性向上》
来訪者が持ってきた不便が、そのまま差分になっている。誰かが困って、どこかが拾って、どこかのユニットに投げたのだ。
「……今、ちょうど、それ来てます」
私は言いながら、署名欄を見た。党ドクトリン署名が必要、と赤字。
『党の鍵? もう皆、薄く解けるって噂だよ』
祖母の声が小さくなる。
赤字の下に、灰色のボタン。
《代替手続:準拠署名(推奨)》
推奨、が怖い。推奨はいつだって“従え”の別名だ。
私は息を吸って、押した。
合成音声が、私の端末から淡々と読んだ。
「準拠署名を開始します。あなたの判断は、後日、統計的に正当化されます」
来訪者が、少しだけ真顔になった。
「……正当化?」
「たぶん、結果が先で、理由があとです」
そう言ってしまってから、私は観光案内員らしくないことを言ったと気づいた。
『でも、写真は嘘つかないよ。現像したら、そこに写ってる』
祖母がぽつりと言う。
五分の残りが減っていく。画面に、細い進捗バー。
来訪者のeペーパー端末が、こちらの更新を待つように、同じ白を保っている。
やがて端末が小さく振動し、合成音声がまた天井から鳴った。
「手続きが更新されました。コンビニのコピー機では、プリント写真を複写してください」
来訪者が目を見開き、笑った。
「助かります。現像、間に合うかな」
「港の裏に、まだ開いてる現像ボックスがあります。……祖母が、昔の店の話をよくしてた」
私は言いかけて、止めた。エージェントが一瞬、静かになったから。
来訪者がカメラをしまい、頭を下げる。
「平成、面倒だけど……こういう面倒は、嫌いじゃないです」
その背中を見送った瞬間、私の端末がまた震えた。
《任期終了:内閣総理大臣》
カウンターの上には、展示用のフィルム写真が一枚。夜の港、観覧車、手ぶれの光。
私はその写真の端に、指先で触れた。紙でもデータでもない、銀塩のざらつき。
『ねえ』と祖母が言う。『面倒って、たぶん、覚えてるってことだよ』
私は窓の外の暗い海を見た。
観光客が減っていく桟橋で、誰かのeペーパーが風に白く揺れた。
合成音声が閉館を告げる。
「本日のご利用、ありがとうございました」
その声だけが、やけに“人”みたいに聞こえた。