棚と傘、そして五分の決断

──平成0x29A年02月08日 22:30

雨足が弱まるにつれて、店の前を流れる車のヘッドライトもまばらになる。平成0x29A年02月08日、22時半を少し過ぎたばかり。レンタルショップ「ビデオパラダイス」は、僕にとって深夜の隠れ家のようなものだった。

「健一、あの『ゴーストバスターズ』の特典ディスク、まだ戻ってないのかい?」

左耳に直接響く祖父の声に、僕は少し苦笑する。吾郎じいちゃんは享年75で老衰だったが、僕のエージェントとして今も現役だ。元映画館の映写技師だっただけに、映画に対する情熱は健在らしい。腕に装着したエッジAI端末のディスプレイに、半透明のホログラムで吾郎じいちゃんの顔が浮かび上がる。皺の深い顔が、残念そうに眉を下げた。

「はいはい、じいちゃん。明日の朝一番で督促かけますよ」

端末で返却棚をスキャンしながら、僕は答える。この店は、いまだにVHSから最新のBDまで物理メディアを揃えている。ストリーミングサービス全盛の時代に、わざわざ足を運んで借りていく客がいるのが不思議なくらいだ。でも、この埃っぽい棚や、パッケージを手に取る感触が、たまらなく落ち着く。

奥のバックヤードから、鈍い「ガガガ……」という音が響く。FAX機が注文書を受信している音だ。サブスクリプションで仕入れた商品はエッジAI端末で管理できるのに、なぜか取引先の一部はいまだにFAXを使い続けている。平成エミュレーションも、ずいぶん混線しているものだといつも思う。

その時、エッジAI端末がけたたましいアラート音を鳴らした。

「吉村健一様、第0x4E7A内閣ユニットより入電。ただ今より、5分間の内閣総理大臣職務に任命されます。着任通知を受諾してください」

またか、と小さく舌打ちした。今月はこれで二度目だ。僕の腕の端末に、緊急の政策変更リクエストが提示される。

『現行制度との差分断片:物理メディアレンタル事業助成金制度の廃止。社会のデジタル化推進、およびコスト最適化のため。党ドクトリンに基づく承認を求む。』

吾郎じいちゃんのホログラムが、驚きと同時に現実的な顔になる。「おいおい、こりゃ大変だ。これじゃあ、この店ももたねぇぞ」

この助成金がなければ、「ビデオパラダイス」のような店は、たちまち経営が立ち行かなくなる。党ドクトリンは「社会安定に最適」と判断して「平成」をエミュレートしているというが、その文化を支える制度を廃止しようとするのは矛盾しているじゃないか。

「じいちゃん、どう思う?」

僕は端末を見つめたまま、吾郎じいちゃんに尋ねる。じいちゃんは少し考えて、「時代の流れってやつは、止めようがねぇもんだ。俺が映写技師を辞めた時も、フィルムがデジタルに変わるって時も、同じことを言われたよ」

端末に表示された「承認」か「非承認」のボタン。残り時間、4分30秒。

承認すれば、党ドクトリンに則った「最適化」が実行される。非承認にすれば、システムは一時的に拒否されるだろうが、また別の誰かが総理に任命され、同じリクエストが届く可能性が高い。アルゴリズムが半ば公然と解読されている今、党ドクトリンの「最適」が本当に「社会」にとって最適なのか、僕には分からない。

「天皇陛下より、皇室遺伝子ネットワーク経由で、国民の安寧を願うメッセージが届いています」

エッジAI端末が、無機質な音声で通知を読み上げた。人々があまり意識しないという天皇制の遺伝子ネットワーク。そのメッセージが、なぜか胸に響いた。

その時、ドアが開き、一本のビニール傘を差した客が入ってきた。高校生くらいの若い男の子だ。傘をたたみ、水滴を払いながら、彼は真っ先にアニメのコーナーに向かっていく。

彼の背中を見て、僕は思った。この、誰もが手軽にエンタメを楽しめる時代に、あえて店に来て、棚から一枚のディスクを選ぶ。その行為自体が、ここにある「平成」の文化じゃないか。フィルムの時代を知るじいちゃんが、僕のエージェントとしてここにいることも、きっとそういうことだ。

残り時間、1分30秒。僕は迷いなく「非承認」ボタンをタップした。

「吉村健一様、承認は却下されました。閣議決定は非承認です。5分間の総理職務は終了しました。お疲れ様でした」

吾郎じいちゃんのホログラムが、少し驚いたように僕を見つめる。「お前、やったな」

「ええ、まあ」

僕は肩をすくめた。再び静けさが戻った店内に、雨上がりの湿った空気が流れ込む。助成金廃止が本当に阻止できたのかは分からない。きっと、またすぐにリクエストは再提出されるだろう。けれど、少なくとも今夜、僕は自分の意志で、この場所を守る選択をした。

「たまには、俺が若かった頃の映画でも観てみるか?」吾郎じいちゃんが端末の中でニヤリと笑う。店のネオンサインが、雨上がりのアスファルトに淡く滲んでいた。僕が選んだ「平成」が、この夜の静けさの中に、ほんの少しだけ長く息をしているような気がした。