匂いの残高、光の落書き

──平成0x29A年01月13日 19:30

平成0x29A年01月13日、十九時半。
公園の外灯はLEDの白さなのに、ベンチの背板だけ妙に木のささくれが平成で、指に引っかかった。

「待ち合わせはメタ広場って言ったでしょ」
耳の奥で祖母の声がする。——私のエージェント。葬式のあと、区役所の窓口で同意したときのサインの癖まで、そのままだ。

公園の中央には、プリクラ機が一台だけ置かれている。ピンクの筐体に、やたら未来っぽい黒いリングが乗っていて、上に「メタバース広場 接続端末」と浮かぶ。
リングの内側は透明で、覗くと別の広場が重なって見える。人の輪郭だけが先に届いて、声は遅れて追いつく。

私はバッグからテレホンカードを出した。磁気の角が丸くなったやつ。いまどき公衆電話なんて、災害訓練のときしか使わないのに、うちにはなぜか未使用が束である。

「それ、どこで手に入れたの」
祖母が言う。
「家の引き出し。平成の遺産」

プリクラ機の横に、匂い再現デバイスが取り付けられている。小さなカセット口と、鼻先に当てるシリコンの漏斗。『香気サブスク対応/テレカで単発購入できます』と、手書き風のAR広告が踊っていた。

私はテレホンカードを差し込む。カチ、と昔の自販機みたいな音。
画面にはiモードみたいな縦長メニューが出て、選択肢だけは最新の金融規格に変換されている。

——購入に失敗しました:通話残高を検出できません。
——推奨:第402ドクトリン準拠カードを使用してください。

「ほらね。平成エミュのくせに、平成の磁気を読めない」
私は舌打ちする。

祖母が、昔みたいに笑った気配を混ぜる。
「あなた、そういうの得意じゃないの。ほら、差分の申請とか」

得意、というより生活のためだ。
私は地区の小さな業者で、内閣ユニットに流れる「制度との差分断片」を整形して投げる下請けをしている。夜に公園で待ち合わせるのは、家の回線が混むからでもある。

そのとき、手首の端末が震えた。

——あなたは第0x7A19C内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました(5分間)。
——党署名:要。

「また来た」
私は小さく呟く。

祖母が急に真面目な声になる。
「変なものに触れないで。倫理検査、そろそろなんでしょ」

私は通知を横に払って、深呼吸した。公園の冷気に、焼き栗の屋台の匂いが混じる。現実の匂いは、デバイスよりずっと安い。

リングの向こう——メタバース広場のほうで、誰かが手を振っている。現実側では誰もいないのに、光の輪郭だけが近づいてくる。

『香気デバイス:代替決済を提案します』
プリクラ機が勝手に喋り、画面に「内閣ユニット権限での即時承認(5分)を利用」と出た。

私は笑ってしまった。
「匂い一回のために、総理を使えって?」

祖母が言う。
「……使ってみなさい。あなた、そういうの、好きなくせに」

好き、というより。
私は、五分だけの権限で、匂いの単発購入を承認する差分断片を作る。党ドクトリン署名が要るはずなのに、いまは半ば解かれていて、端末が勝手に「近似署名」を当ててくる。

——承認:香気単発購入(焼き栗/冬の公園)
——適用範囲:このプリクラ機周辺 半径2m

漏斗から、温かい甘さが流れた。

リングの向こうの彼女の輪郭が、少しだけ鮮明になる。声の遅延が縮んで、やっと「寒いね」が届いた。

私はプリクラ機のカーテンを開けて、現実側の空席に向かって言う。
「ここ、座って。……今だけ、匂いも同期するから」

祖母が、耳元でため息をつく。
「告白するなら、写真に残しなさい」

プリクラ機が勝手にカウントを始めた。フラッシュの前に、私は彼女の輪郭へ向けて、言葉を投げる。

「俺さ。総理になるの、怖いんだ。五分で、匂い一つ変えられるのが」

光が一瞬止まり、向こうの彼女が笑った。
「じゃあ、五分の間だけでいい。私のこと、好きって言って」

フラッシュ。
写真のフチには、手書き風の文字が自動で入る。
『匂いの残高:0/でも、ここにいる』

外灯の下で、私はテレホンカードを抜いた。角が少し欠けている。
それでも、プリクラのシールだけは、やけに粘着が強かった。