日付のないトマト、泥だらけのベル

──平成0x29A年 日時不明

 腰のベルトに付けた黒い小箱が震えた。
 泥のついた軍手を外し、液晶画面を覗き込む。表示されたのは『0833』。オヤスミ、ではない。第16農業ブロックのローカルコードで「収穫待機」だ。本来ならこんな通知は網膜投影で済むはずだが、今朝からブロック全体を覆う「霧」のせいで、上位システムとのリンクが寸断されているらしい。

「おい健一、またベルか。懐かしい音させやがって」
 頭の中で、しわがれた声が響く。祖父の鉄三だ。五年前にトラクターの横転事故で死んだが、今は俺の視覚野に常駐するエージェントとして、口うるさく野菜の出来を監視している。
「じいちゃん、懐かしいって言っても、俺にはただの支給品だよ。丈夫で電池が持つからってだけで使わされてるんだ」
「情けねえこと言うな。電波が届くなら御の字だろ」

 俺はeペーパー端末を取り出し、出荷管理画面を開いた。画面の右上に表示されるべき日付と時刻が、不吉なアンダースコアの点滅に置き換わっている。ここ数日、個人の生体ログと中央標準時との同期エラーが頻発していたが、ついには暦そのものが消失したらしい。今が何月何日の何時なのか、正確なところは誰も知らない。太陽の位置と腹の減り具合で、なんとなく昼過ぎだと推測するだけだ。

 ビニールハウスの入口付近にあるホログラム掲示板が、ノイズ混じりに明滅している。本来なら「今月の目標出荷量」や「党ドクトリンに基づく食育標語」が浮遊しているはずの空間に、バグった文字列と、三十年前のアイドルらしき画像が二重露光のように重なって揺れていた。システムの混乱は根深い。

「おーい、井上さん!」
 ハウスの入り口から声がした。隣の区画を担当している鈴木さんだ。彼は首からラミネート加工されたバインダーをぶら下げている。
「連絡網です。システム復旧未定につき、物理回覧で回せってさ」
「物理って……マジですか」
 鈴木さんは苦笑しながらバインダーを差し出した。『緊急連絡網』と極太の明朝体で書かれた紙には、手書きのサインが連なっている。俺もボールペンで自分の名前を書き込み、次の担当者である田中さんの名前を確認した。
「次、田中さんとこまで走らなきゃいけないのか」
「悪いね。でも、これがないと出荷トラックが来ないかもしれないから」

 鈴木さんが去った後、俺は再びeペーパー端末に向き合った。収穫したトマトの糖度データと、俺の作業ログを紐付けようとするが、画面には『再同期中……』の文字が虚しく回転するばかりだ。俺がこのトマトを摘んだという事実は、時間のタグを失ったことで、システム上では「存在しない労働」になりかけている。

「焦るなよ」
 祖父の声が少し柔らかくなった。
「時間がわからなくたって、トマトは赤くなってる。触ってみろ、その皮の張りを」
 俺はコンテナの中の一つを手に取った。ずしりとした重み。指先に伝わる冷やりとした感触と、ヘタの青臭い匂い。データになろうとなるまいと、こいつは確かにここで熟している。

 再びポケベルが鳴った。『114106』。アイシテル、ではない。「イイヨ・ト・ロク」。つまり承認完了、第六ゲートへ運べの合図だ。誰が承認したのか、そもそも現在時刻がいつなのかも不明なまま、古い通信機器だけが迷いなく次の工程を指し示している。

「へへ、便利な世の中になったもんだな」
 祖父の皮肉に、俺は肩をすくめてコンテナを持ち上げた。eペーパーをポケットに突っ込む。同期されないログなんてどうでもいい。腕にかかる確かな重みだけが、俺たちが今日を生きた証拠だった。