非互換性の証明

──平成0x29A年01月29日 08:50

「高橋さん、駐輪場の整理、お願いしますね」

スピーカーから響く上司の声に、俺は気のない返事をした。公民館の前にパイプ椅子を並べ、避難者役の住民を待つ。防災訓練だ。空は快晴なのに、サイレンの録音音声がやけに空々しく響いている。

『健太、次のタスクは自転車への紙札取り付けです。識別番号の記入漏れに注意してください』

耳元のインカムから、滑らかな合成音声が聞こえる。代理エージェントの声だ。
父さんの声じゃない。

「わかってる」

ぶっきらぼうに答えて、俺は厚紙の束を手に取った。駐輪場の整理札。昔ながらの、針金でハンドルに括り付けるタイプだ。隣の受付では、別の係員が住民役の腕にピッ、ピッと近傍通信タグを巻き付けている。紙と電子タグが混在する、いつも通りのちぐはぐな風景。

父さんのエージェントは、もう三週間も戻ってこない。法定倫理検査に入ったきり、ステータスは『審査保留』。問い合わせても『中央ドクトリンに基づくアルゴリズムの遅延』という定型文が返ってくるだけだ。

『健太。記入した紙札の文字が判読しづらい可能性があります。生成AI校正ツールを起動しますか?』

「いらない。手書きでいいんだよ、これは」

代理エージェントの気の利いた提案が、神経をささくれ立たせる。父さんなら、「字が汚ねえのは昔からだな」なんて軽口を叩いてきたはずだ。

午後からは備蓄品の仕分け訓練だった。体育館の隅に積まれた段ボールを開けると、出てくるのは乾電池の山。単一、単二、単三……規格もメーカーもバラバラの、膨大な量の乾電池。

「これを世帯ごとに配るのか……」

思わず独りごちる。あまりに非効率だ。

『マニュアルに従ってください。この配給手順は、過去の災害事例を基に最適化されたプロトコルです』

「父さんなら、もっとマシな方法を考えた」

言ってしまってから、相手が代理エージェントだったことを思い出す。虚しさがこみ上げた。生前の父は、防災ヘリのレスキュー隊員だった。規則よりも現場の判断を優先して、何度も表彰され、同じ数だけ始末書を書いていた。

『故・高橋誠一氏の思考パターンをエミュレートしますか? 倫理規定に基づき、限定的な応答のみ可能ですが』

「……いい」

俺は端末を取り出し、父さんのエージェントのステータス画面をもう一度開いた。いつもは気にも留めなかった詳細ログの階層を、指でなぞる。
審査保留。その横に、小さなアスタリスクが付いていた。注釈だ。
タップすると、文字列がポップアップした。

『エラーコード0x7B: ドクトリン非互換性』

心臓が、小さく跳ねた。ドクトリン非互換性。それは、エージェントの人格コアが、党の定めた倫理基準と相容れないと判定されたことを意味する。

システムが求める『正しい人格』から、父さんは逸脱している。

乾電池のひんやりとした感触が、手のひらに伝わる。あの人は、マニュアルを無視してでも、目の前の人間を救おうとするような男だった。その融通の利かなさ、非効率な人間性こそが、父さんそのものだった。

システムは、父さんを『エラー』として弾いている。だから、戻ってこない。

それは、あの人がまだ、俺の知っている父さんのままでいるという、何よりの証明じゃないのか。

俺は乾電池の山を見つめたまま、しばらく動けなかった。空々しいサイレンの音が、やけに遠く聞こえた。