更新されない記憶の波紋
──平成0x29A年09月21日 02:20
平成0x29A年09月21日、深夜2時20分。高齢者医療福祉施設「常盤荘」の静寂を破るのは、俺の指先がキーボードを叩く乾いた音だけだった。
「また署名エラーか……」
画面には赤字で『第402ヘゲモニー期、内閣ユニット0x29A-401D、党ドクトリン合意不成立。政策変更リクエストR-33789は保留中』と表示されている。担当する入所者、田中ユキさんの記憶補助デバイスのシステム更新が滞って数週間。このままだと、ユキさんの記憶はどんどん乖離していく。実際、最近は「昨日、テレビで『ロンバケ』の再放送があってねぇ」と、80年近く前のドラマについて語り出すことが増えた。
「0xAA-03型アシスタント、このエラーコードに関する党中央ドクトリンの解読進捗は?」
俺は、目の前の小型ホロディスプレイに表示された代理エージェントに問いかけた。本来なら母さんが傍らにいて、もっと気の利いた助言をくれるはずだが、今は法定倫理検査中で、汎用型の代理エージェントが対応している。
「現行ドクトリンに基づく閣議決定が保留中のため、当リクエストは現在承認できません。類似事案への対処として、最寄りのブロックチェーン印刷端末での情報取得を推奨します」
無機質な合成音声が、いつも通りの返答を繰り返す。どうにも歯がゆい。
結局、マニュアル通りに動くしかない。俺は立ち上がり、施設を出た。コンビニまでは徒歩5分。夜風が火照った顔に心地いい。空には自律警備ドローンが静かにホバリングし、施設の周りを巡回している。この数十年で、夜間の治安は格段に良くなったが、監視の目は常にそこにある。
最寄りの『セブンイレブン・エミュ』は24時間営業だ。店内に入ると、懐かしいJ-POPの着メロが流れていた。誰かの私用デバイスからだろうか。90年代のヒットソングが、未来的な合成食品の香りと混ざり合い、奇妙な感覚に襲われる。
俺は隅にある古びたコンビニのコピー機に、エラーコードの情報を転送し、印刷する。インクジェットの音がガタガタと鳴り、薄い感熱紙に羅列された文字が吐き出された。このアナログな作業が、最先端の記憶補助システムのバグを修正する一助になるとは、なんとも皮肉な話だ。
施設に戻り、スタッフ休憩室で合成食品プリント機から『合成鮭おにぎり』と『合成味噌汁』を出して夜食にした。ディスプレイに目をやると、田中ユキさんの記憶ログがさらに不安定になっている。断片的な過去の記憶と、現在の情報がパッチワークのように混ざり合い、意味を成さない文章が並んでいた。
その時、隣の部屋から、微かに着メロが聞こえてきた。今度は別の曲だ。これもまた、平成初期のポップソング。どうやら、ユキさんだけでなく、他の入所者の記憶補助デバイスも同様の不具合を起こしているらしい。党ドクトリンの署名不備が、個人の記憶にまで影響を及ぼしている。
「小野寺さん、今日はどんな番組を見たの?」
背後から、別の入所者、佐藤ハルさんの声がした。振り返ると、ハルさんは少しぼんやりとした目で、俺の顔を見つめていた。ハルさんの記憶補助デバイスも、数日前から同様のエラーが頻発している。
「テレビですか? 今日は特に何も…」
「あらそう? でも、さっきまでみんなで笑ってたじゃない。あの漫才師の人たち、面白かったわねぇ」
ハルさんの言葉は、きっと、数十年前に見たテレビ番組の記憶だろう。あるいは、今日起きた出来事と、過去の記憶が混ざり合ってしまった結果か。
俺は、プリントアウトしたエラーコードの山を見つめた。このままでは、記憶補助システムの不具合は増え続け、施設中の入所者たちが、現実と過去の「平成」という名の夢の間を漂い続けることになるだろう。もはや、それは個人の問題ではない。まるで、社会全体がゆっくりと、不鮮明な過去に引きずり込まれていくような、そんな不穏な予感がした。
着メロの音が、また一つ、静かな施設に響いた。
それは、誰かの記憶が更新されずに、時代錯誤な幻影を奏でている音だった。
そして、その幻影が、いつか現実を浸食する日が来るのではないか。俺は漠然と、そう思った。