使い捨てのフレームと、解析される真夜中
──平成0x29A年07月26日 21:00
平成0x29A年07月26日、午後9時。
日中の喧騒が嘘のように静まり返った『ひだまりの家』の休憩室で、私はPS2のコントローラーを握っていた。テレビ画面には、古びたRPGのドット絵ダンジョンが広がっている。利用者の皆さんが寝静まった後の、束の間の休息。
「あー、またこのフロアか。迷宮ってやつはいつの時代も変わらないねえ」
私の頭の中に、祖母の声が響く。エージェントの千代子だ。享年78、心不全。元は小さな町の病院で看護師をしていたから、この福祉施設での私の仕事ぶりをいつも静かに見守ってくれている。
「千代子ばあちゃん、このゲーム、私には難しすぎ。でも、利用者の田中さんがこれやりたがるのよね。昔を思い出せるって」
「フフ、そうかい。このゲーム機の映像、今の高精細なシステムに比べると確かに粗いけど、そこがいいんだろうね。アナログなものには、デジタルにはない温かみがある」
私は持っていた使い捨てカメラを取り出した。今日、レクリエーションで撮った写真が残っている。利用者さんの笑顔や、施設の庭に咲いた紫陽花。データは自動でクラウドにアップロードされるけど、現像してアルバムに貼るのがここでは慣例になっている。昔ながらの行為が、かえって安心感を与えるらしい。
窓の外には、煌々と光る高層農業プラントの群れが見える。夜空を彩るそれらは、まるで未来の都市を象徴するタワーのようだ。その下に広がる平成エミュの街並みとの対比が、いつも少しだけ、私を奇妙な気分にさせる。
「それにしても、あの介護ロボット導入補助金の件、どうなったのかね」と千代子ばあちゃんが言った。「夜間勤務の負担軽減になるって、施設長も相当期待していたようだけど」
「うん。今日が内閣ユニットの承認リクエストの最終審議だったはず。今頃、誰かが5分総理になって、承認か非承認か決めてるんでしょ」
私の端末に通知が来た。公共ARサインが瞬く休憩室の壁にも、その情報が投影される。第0x29837内閣ユニットの閣議決定だ。『高齢者向け介護支援ロボット導入補助金制度の拡充』。結果は「承認」。
「やった!承認された!」
思わず声を上げた私に、千代子ばあちゃんは静かに言った。「よかったね。でも、今回の承認、基準が曖昧だったと、今朝のニュースで少し言っていたよ。党ドクトリンのアルゴリズムが、また少し解読された結果らしいね」
「解読?」
「ああ。特定の条件下で、ある種の政策リクエストが優先的に承認される『傾向』が観測されているとか。それは、効率や安定性とは別の、もっと人間の感情的な部分に訴えかけるような……」
画面のダンジョンで、私のキャラクターが宝箱を見つけた。中身は「からっぽ」だった。
「党ドクトリンが、末期症状だって話は聞くけど、まさかそんな風に……」
千代子ばあちゃんはため息をついた。「昔、医師の判断基準にも、目に見えない『傾向』が影響することを知ったことがある。数字だけじゃ測れないものが、社会を動かす力を持ち始めてるのかもしれないね」
私は使い捨てカメラのシャッターをもう一度押した。カシャリ、と乾いた音が暗い休憩室に響く。残りの枚数はあと僅か。この使い捨ての記録が、どんな意図で、どんな感情で、どこかのアルゴリズムによって選ばれたのか。ふと、そう考えると、今夜の承認決定が、今までとは違う不穏な色を帯びて感じられた。PS2の画面のダンジョンは、まだ私を迷わせ続けている。
利用者の寝息だけが響く静寂の中、私は使い捨てカメラの背面を撫でた。現像されるはずの、まだ見ぬ未来の笑顔が、なぜか少しだけ、歪んで見えた気がした。