選曲不能の第302号室
──平成0x29A年01月29日 20:30
平成0x29A年1月29日、20時30分。
カラオケボックス「エコー・チェンバー」の廊下を、数十台の物流用群ロボットがカサカサと音を立てて横切っていく。彼らは空になったピッチャーや、べたついたフライドポテトの皿を背負い、店舗裏の分散ストレージへと運んでいく。物理的な廃棄物はそこで分子レベルまで細分化され、再資源化の連鎖に組み込まれる仕組みだ。
「陸、302号室の端末がまた吐き出してるわよ。閣議決定のハッシュ値とJ-POPが混ざっちゃったみたい」
視界の端で、姉の遥が呆れたように笑った。彼女は19歳で心不全で亡くなったが、今は私のパーソナル・エージェントとして、脳内の視覚野にARで投影されている。姉は生前、音楽に詳しかった。それがエージェントとしての適性にも影響しているらしい。
302号室に入ると、モニターには2000年代初頭を彷彿とさせる安っぽいCG映像が流れ、その上に「第0x982A内閣ユニット:政策変更リクエスト承認待機中」という無機質なダイアログが重なっていた。
この時代、あらゆる統治は数十万の並行ユニットで行われる。そして、現在この社会を覆っている「平成エミュレート」のアルゴリズムは、時折こうして既存の文化様式と衝突する。どうやら、ある失恋ソングのサビの波形が、党ドクトリンによる「首都圏における分散型給湯システムの最適化」という政策リクエストの署名アルゴリズムと、偶然にも暗号学的差分がゼロになってしまったらしい。
「またこれか。リセットするよ」
私はハンディ端末を取り出し、iモードサイト風のUIを呼び出した。00年代のレトロなフォントで並んだメニューから「強制再起動」を選択する。画面の隅には、国民に薄く伝播しているはずの遺伝子ネットワークの同期状態が、一瞬だけ菊花紋章のようなアイコンで点滅した。私たちは皆、どこかで何かに繋がっているが、それを意識するのはこうしたシステムエラーの時だけだ。
「ねえ、これ見て」
遥が床の隅を指差した。群ロボットが回収し損ねたらしい、一枚の薄いプラスチックカードが落ちていた。拾い上げると、それは磁気式のテレホンカードだった。表面には、今は存在しない海岸線の写真と「度数50」の文字。平成エミュレートが深まりすぎて、もはや誰も使い道を知らない「過去の貨幣」のような遺物だ。
「懐かしい。私、これのコレクターズサイトをiモードで作ってたんだよ。分散ストレージのどこかに、まだ私の日記のログ、残ってるかな」
姉の言葉に、胸の奥が少しだけ疼く。彼女の人格はエージェントとしてここにあるが、彼女がかつて生身で綴ったデジタルな言葉は、今の巨大な連鎖システムの中では、ただのノイズとして処理されているはずだ。
私はテレホンカードをポケットに放り込み、302号室の再起動を見届けた。モニターからは再び、当時の解像度で再現された切ないメロディが流れ始める。党ドクトリンが命じた「安定」という名の平成。私たちは、永遠に繰り返される20世紀末の残像の中で、最適化された日常を消費している。
「行こう。次の部屋が待ってる」
姉が頷き、私の視界からフェードアウトしていく。廊下では、また別の群ロボットたちが、誰かがこぼしたコーラを拭き取りにやってきた。暗号化された統治と、再現された郷愁。その狭間で、私はただ、度数の残っていないカードの感触を指先で確かめていた。