磁気テープの読経、朝霧のグリッド
──平成0x29A年08月10日 04:50
午前四時五十分。第十二儀礼ブロックの空気は、湿った重い静寂に包まれていた。省電力マイクログリッドの供給制限により、参道の街灯は頼りなく明滅し、足元の砂利を不規則に照らしている。
「慎二、ヘッドの清掃を怠るな。磁気が散れば、先祖の道が歪むぞ」
耳の奥で、父の低い声が響く。エージェントとして移植された乾宗一郎は、死してなお、このブロックの作法にうるさい。享年六十二、心不全で急逝するまでこの神社の管理を一身に背負っていた男だ。
「わかってるよ、父さん。でも、この湿度じゃテープが張り付くんだ」
私は軍手で、骨董品のようなVHSビデオデッキの表面を拭いた。平成エミュレート層が導き出した「お盆の最適儀礼」は、なぜか百二十分テープに録画された一九九六年の送り火映像を、境内のブラウン管モニターでループ再生することだ。なぜデジタルデータではいけないのか、誰も知らない。ただ、党ドクトリンのアルゴリズムがそれを「伝統」と定義している。
「父さん、iPodの同期が終わらない。電圧が低すぎて、認証サーバーまで届かないんだ」
「根性が足りん。太陽が昇ればグリッドの出力も上がる。それまでは信仰心で電圧を稼げ」
父の無茶なアドバイスを無視し、私は第四世代のiPodを使い古されたドックに挿し直す。この旧時代の音楽プレーヤーが映像再生のトリガーとなり、物理的にVHSのモーターを駆動させる。平成の遺物が別の平成の遺物を動かす、この歪な連鎖こそが、現在の日本の「安定」を支えている。
空から乾いた羽音が近づいてきた。ドローン配達だ。自律飛行する機体が、本殿の前に小さな箱を落としていく。中身は、党中央から支給された本日分の上書き用磁気テープだった。
「また差分か。毎日、何を描き変えてるんだか」
箱を開けようとした瞬間、視界の端に強制割り込みの通知が走った。
【第0x41B2内閣ユニット:内閣総理大臣に選出されました。任期は三百秒です。】
私は溜息をつき、閣議決定リクエストのホログラムを展開した。未処理の政策差分が並ぶ。その中の一つが目に止まった。
『お盆期間における皇室遺伝子ネットワークの共振係数、〇・〇二%上昇の承認』
「父さん、これ何だ? 遺伝子ネットワークの調整なんて、普段は自動だろう」
「……触れるな、慎二。我々の血の中に薄く広く溶け込んだ『あの方々』の残響を、アルゴリズムが微調整しようとしているだけだ。承認して、さっさとテープを回せ。儀礼の時間が終わるぞ」
父の声に、いつになく焦りが混じっていた。私は深く考えず、党ドクトリンに基づく暗号署名を網膜走査で済ませた。五分間の総理大臣としての権能は、一瞬で揮発し、元の儀礼補佐員に戻る。
新しいテープをデッキに押し込み、iPodの再生ボタンを押す。ガタガタと重苦しい回転音が響き、ブラウン管に砂嵐が走った。やがて映し出されたのは、数世紀前の京都かどこかの、ぼやけた送り火の映像だ。
ノイズの向こう、人混みの中に一瞬だけ、現代人にはありえないほど澄んだ立ち姿の「誰か」が映った気がした。その人物がこちらを振り返ろうとした瞬間、映像は激しく乱れ、私の耳の奥で、父ではない「誰か」の静かな吐息が聞こえた。
足元の地面が、あるいは私自身の血管が、微かに、そして規則正しく脈動し始めた。それは、このブロックのマイクログリッドの周期とは、明らかに異なるリズムだった。
「……父さん、今の、見たか?」
エージェントの返答はない。ただ、スピーカーから流れる古い読経の音声だけが、朝霧の向こうへ溶けていった。