銀色のホイール、空を埋める羽音

──平成0x29A年09月23日 15:00

「ねえ、お兄ちゃん。その曲、もう三周目だよ。もっと令和っぽい……あ、今は平成だっけ? とにかく、最近の曲にしてよ」

耳元で恵(めぐみ)が呆れたように笑う。網膜に投影された彼女のアバターは、二十年近く前に死んだ時と同じ、少し短い制服のスカートを揺らしていた。俺は無視して、ポケットの中にあるiPodのクリックホイールを親指でなぞった。カチカチという触覚フィードバックが、骨を通じて脳に響く。再生されているのは、三百年以上前のロックバンドの曲だ。

平成0x29A年9月23日、15時00分。
「秋分の日」という党ドクトリンが定める祝日のせいで、このマンモス集合住宅は奇妙な活気に包まれている。本来、働かなくても生命維持は保証されているはずなのに、アルゴリズムが「季節の行事」を推奨した結果、住人たちは一斉に「大掃除」や「お墓参り(のシミュレーション)」に勤しんでいた。

「お兄ちゃん、苦情一件。B棟12階の田中さんが、ドローンがベランダで渋滞して洗濯物が干せないって」
「またかよ。第204内閣ユニットは何をやってるんだ。高度制御のアルゴリズムを更新したんじゃなかったのか」
「それが、今日の『おはぎ』の特別配送リクエストが多すぎて、共有の演算リソースがパンクしてるみたい。ほら、見て。あそこの空」

恵が指差す先、集合住宅の中庭を囲む四角い空には、無数のドローンが蜂の群れのように滞留していた。重なり合うプロペラの羽音が、低いうなりとなって建物全体を震わせている。ドローンたちは、党ドクトリンが推奨する「季節の和菓子」を各戸のベランダに届けようとして、計算資源の不足から空中停止(ホバリング)を余儀なくされているのだ。

俺は管理代行員として、腰に下げた「家の鍵の束」をじゃらつかせながら歩いた。実際には全てRFIDと生体認証で済む時代だが、この物理的な重みと音は「管理人の権威」を演出するための平成エミュレート小道具だ。だが、今はそれどころではない。

「恵、近隣の『時間貸しCPU』の空き状況を当たってくれ。俺の個人用リソースも開放する。このままだと、ドローンのバッテリーが切れて中庭に墜落するぞ」
「了解。あ、でもお兄ちゃん、倫理検査の通知が来てるよ。私、あと十分で一時停止しなきゃいけないかも」
「こんな時にかよ」

俺は舌打ちしながら、エントランスの管理端末に物理キーを差し込んだ。実際には物理的な接触をトリガーにした暗号署名が行われている。党のアルゴリズムは、こういう「手仕事」を介さないと、緊急の演算リソース確保を承認してくれない。

「恵、停止する前に、B棟の誘導ビーコンだけ書き換えてくれ。おはぎの配送優先度を一段下げて、空域を解放させるんだ」
「わかった。……よし、書き換え完了。お兄ちゃん、あとの残務は代理エージェントに頼んでね。じゃあ、また明日。……あ、その曲、本当は私も嫌いじゃないよ」

恵の声が、ふっと消えた。視界の端で笑っていた彼女の姿がノイズに溶け、無機質な「代理:汎用人格β」のアイコンに切り替わる。胸の奥に、風穴が開いたような寂しさが広がる。これが三ヶ月に一度の法定倫理検査だ。

『管理者様、演算リソースの追加確保に成功しました。ドローンの着陸誘導を再開します』

抑揚のない代理エージェントの声と同時に、空の「蜂の群れ」が動き出した。一糸乱れぬ動きで各階のベランダへと吸い込まれていくドローンたち。混乱は収まり、中庭には再び穏やかな、エミュレートされた秋の陽光が差し込んだ。

俺はベンチに腰を下ろし、再びiPodのホイールを回した。恵が最後に「嫌いじゃない」と言った曲が流れる。耳元に彼女の気配はない。けれど、彼女がさっきまでそこにいて、空を埋める羽音を一緒に眺めていたという事実は、掌の中のiPodが帯びている微かな熱量として残っていた。

「おはぎ、一個くらい余ってないかな」

俺の独り言に、代理エージェントは『在庫リクエストは受理されていません』と冷たく答えた。俺は苦笑し、じゃらりと鍵の束を鳴らして、次の苦情処理のために立ち上がった。この歪な、けれど懐かしい「平成」の午後は、まだしばらく続きそうだった。