回覧板は、クラウドに載らない
──平成0x29A年07月31日 20:30
平成0x29A年07月31日、20:30。
団地の廊下は昼の熱をまだ抱えていて、コンクリの匂いが汗に混じった。郵便受けの上に、赤いゴム印で「至急」と押された回覧板が置かれている。紙の角が少し湿って、誰かの指の油を吸っていた。
「エレベーターは明日から一週間、夜八時以降は使用禁止」
太字の下に、小さく理由が書いてある。
『騒音対策。苦情がありました。自治会』
俺は思わず、玄関の内側に吊ったデジタル時計を見た。20:31。今夜もこれから、父さんの遺影の前に線香をあげて、それから下のゴミ置き場まで段ボールを捨てに行くつもりだった。
耳元で、AI秘書の「ミナ」がささやく。
「坂口さん、本日の生活タスク:資源回収(20:40推奨)。階段利用に切替えますか?」
「……切替えたら、誰に怒られるんだよ」
ミナは一拍置いて、事務的に答えた。
「公式規約上、居住者の移動制限は緊急時以外は無効です。自治会回覧は非公式通知に分類されます」
父さんのエージェント──坂口 恒一、享年63、脳梗塞。俺の近親人格が、ミナの声に重なるように出てくる。
『でもさ、ここは“空気”で回ってる。昔から』
父さんは昔、自治会の会計をやっていた。レシートを几帳面に束ねる手つきまで、エージェントは真似る。
廊下の突き当たり、集会室のドアの隙間から蛍光灯の光が漏れている。今日は月末で、役員が何かしているらしい。俺は回覧板を抱えたまま、吸い寄せられるようにそこへ行った。
中は平成の寄せ集めだった。折り畳み机の上に、くすんだFAX機。隣には、透明な板みたいな端末が立っていて、ARで「回覧データ同期中」と出ている。壁際にはプリクラ機が鎮座していて、「夏祭り前撮り」と貼り紙。誰かが試しに撮ったのか、切り抜かれてないシールが床に一枚落ちていた。
「坂口くん、ちょうどよかった」
自治会長の山科さんが、トナーの匂いのする紙束を持ち上げた。「これ、各戸に配って。階段でね」
「エレベーター、夜だけ止めるって……公式ではないですよね」
俺が言うと、山科さんは笑った。
「公式とか言ってたら、ここじゃ暮らせないよ。ほら、苦情の出どころが“第0x7C1B2内閣ユニット”ってことになってるんだ。五分で総理が変わるやつ。相手にしてられる?」
机の端末がチカッと光り、「差分断片:共同設備利用の制限(夜間)」と表示される。承認待ち、と小さく。
ミナが俺の耳元で囁く。
「当該差分断片は党ドクトリン署名が未付与です。非承認見込み:92%」
父さんが低く言う。
『それでも、先に回覧が回る。紙のほうが速いんだ』
山科さんはFAX機の受話器みたいな部分を叩いた。
「ほら、今どきでもこれが一番“通る”。向こうも見てるからね。ほらほら」
印刷された紙の上に、震えるような黒い帯が走っていた。送信先欄には「党ドクトリン窓口(自動)」とあるのに、備考欄に手書きで「自治会決定・先行適用」と書いてある。
俺は紙束の端を指でこすった。ザラつきが、妙に現実的だった。
「……なんでプリクラがここに」
俺が言うと、山科さんは当然みたいに答える。
「夏祭りの名簿写真。本人確認、今はデジタルツインでやるだろ? でもね、うちの団地は“顔”が要るの。壁に貼って、誰が誰か分かるように」
端末に、住民のデジタルツイン一覧が浮かぶ。各戸の生活ログから作られた、笑わない自分たち。
そこに、俺の名前が出た。
「坂口 恒一(デジタルツイン)」
父さんのフルネーム。俺のエージェントと同じ表記。
ミナが平坦に告げる。
「注意:あなたの居住ユニット内に、同一名義のデジタルツインが重複登録されています。原因:近親人格エージェントの移植台帳との同期遅延」
父さんが、少し照れたみたいに言う。
『俺、まだここに“住んでる”ことになってんのか』
山科さんがプリクラ機の電源を入れた。ウィーン、と古い冷蔵庫みたいな音。画面に「盛れるフレーム:2007」「スタンプ:2013」「BGM:1998」とごちゃ混ぜの選択肢が並ぶ。
「ほら、坂口くんも一枚。役員候補の顔出し」
「いや、俺は——」
断る前に、プリクラ機が俺の顔を認識してシャッターを切った。フラッシュ。目の奥が白くなる。
次の瞬間、端末のデジタルツイン一覧が自動で更新された。
「坂口 恒一(デジタルツイン)」のサムネが、今撮った俺の顔になっている。
父さんが、息を呑んだ。
『……おい、それ、俺の場所だろ』
ミナは淡々と続ける。
「更新完了。自治会掲示用・本人性補強:成功。重複解消のため、旧デジタルツインはアーカイブされました」
俺は、プリクラから吐き出されたシールを一枚つまんだ。まだ温かい。指先に粘着の感触が残る。
父さんの声が少し遠くなる。
『まあ……いいか。お前の顔のほうが、今の階段を上り下りする』
廊下に出ると、エレベーターのボタンに「夜間停止」のガムテープが貼られていた。公式の表示は何もない。
俺は段ボールを抱えて、階段へ向かった。
一段目を踏むたび、プリクラの粘着が指に残る。
誰が総理かなんて、五分で変わる。
でも、この団地では、回覧板の湿り気と、ガムテープの匂いが先に決めるのだと、手触りで分かった。