壁と明日のあいだ
──平成0x29A年09月21日 18:50
終業チャイムが鳴った直後、個人端末が震えた。旧市街の第7地区から、緊急度の低いインフラ異常通知。
「こんな時間に……」
独りごちると、視界の隅で父さんのエージェントが肩をすくめるホログラムを投影した。
『まあ、俺たちの仕事は終わりのないパッチワークみたいなもんだからな、拓也』
現場は、取り壊し予定リストに載ってから何十年も経っている集合住宅だった。呼び鈴を押すと、ゆっくりとドアが開き、腰の曲がった老婆が顔を出す。
「すみませんねえ、こんな時間に」
「いえ。……それで、ご用件は」
「カレンダーがね、昨日からずっとそのままで」
通された居間の壁には、懐かしい風景写真のついた紙のカレンダーがかかっていた。ただし、日付と曜日の部分だけが小さな長方形のホログラム掲示になっている、旧式のハイブリッドタイプだ。
確かに、日付は「9月20日(水)」で止まっている。
これは中央の時計サーバーと同期して自動で更新される、この地区限定の古い生活支援インフラだ。たまに同期が詰まる。
「すぐ直しますよ」
俺は壁のパネルを開け、保守用のケーブルを自分の端末に繋いだ。同期コマンドを送信。しかし、すぐに赤いエラーメッセージが返ってきた。
『差分リクエスト棄却:旧式書式のため生成AI校正が意味不明瞭と判断。再構成して申請してください』
「なんだそりゃ」
思わず声が出た。
『AI様がお気に召さなかったと見える』と父さんが茶々を入れる。『昔はな、カレンダーなんて自分の手でビリッと破ってめくるもんで、誰の許可もいらなかったんだがな』
うるさい。分かってる。
要するに、「日付を一日進める」という単純なリクエストが、党ドクトリンに準拠した中央の校正システムに「非効率的で意味のない申請」として弾かれたのだ。平成的というか、あまりに人間的な慣習は、時にシステムの歪みと噛み合わない。
俺は端末を操作し、手動でリクエスト文を書き換え始めた。「生活インフラ・ホログラム掲示板(カレンダー型)の日次更新シーケンスにおける同期不全の是正要求」。これならどうだ。
送信。……また棄却。
「まだ、かかりますかねえ」
老婆が不安そうに湯呑みを差し出してくる。
「いえ、もうすぐ……」
焦りが滲む。システムの気まぐれで、この人は明日を迎えられないでいる。馬鹿げた話だ。
その時だった。端末の画面が切り替わり、厳かなフォントで通知が表示された。
【通達:貴殿を第0x8F11B内閣ユニット、内閣総理大臣に任命します。任期は現時刻より5分間です】
またか。これで4回目だ。
視界には、先ほどまで格闘していた差分リクエストが「閣議案件001」として再表示されている。
『承認/非承認を選択してください』
『おい拓也、こりゃあ……』
父さんの声が聞こえる。
俺は迷わなかった。自分の仕事の範疇だ。システムの不備を、現場の人間が埋め合わせる。いつものことじゃないか。
俺は「承認」の欄に、自分のデジタル署名を書き込んだ。
直後、壁のカレンダーから「ピッ」と小さな音がした。ホログラムの日付が「20」から「21」に滑らかに切り替わる。
「あらまあ。直った」
老婆は嬉しそうに手を叩いた。
礼を言って部屋を出る。外はもうすっかり暗くなっていた。
俺はポケットからくたびれたウォークマンを取り出し、イヤホンを耳につける。カセットテープの再生ボタンを押すと、ざらついた音質の懐かしいメロディが流れ始めた。
『総理大臣のお仕事、ご苦労さん』
父さんの声が、音楽にかぶさるように聞こえた。
俺は何も答えず、ただ夜空を見上げた。巨大で歪んだ世界の中で、カレンダーを一枚めくるくらいの権限。それだけあれば、まだ何とかやっていける気がした。明日も、多分。