スタンプ欄の量子鍵
──平成0x29A年 日時不明
俺は第六配電地区の保守点検員だ。今日も朝から変電設備の巡回ルートを回っている。
腰のポーチから紙のポイントカードを取り出す。表面には「配電区巡回スタンプ」と印字され、二十四のマス目が並んでいる。カードをかざすと、壁のユビキタスセンサーが反応して、自動で朱肉のスタンプが押される仕組みだ。センサー網は平成初期のバーコード読み取り技術と、今世紀の量子認証を組み合わせているらしい。誰も理由は知らない。
「健二、今日は十四番まで回ったな」
イヤホンから声がする。亡き兄貴、川島拓也のエージェントだ。享年四十二。元は電力会社の設計技師だった。
「ああ。あと十カ所だ」
俺が答えると、兄貴は笑った。
「お前、また五分総理に当たるぞ。通知来てる」
「マジかよ」
俺のガラケーが震える。画面を開くと、iモード風のUIに政務通知が表示されていた。
『第0x4A29E内閣ユニット/内閣総理大臣任命/川島健二/任期:5分間/開始:14:22:00』
時刻は十四時二十一分五十秒。あと十秒で俺が総理大臣になる。
「兄貴、閣議リクエスト来てる?」
「ああ。三件だ。一件目は『学校連絡網の量子乱数ロック強化要請』。二件目は『配電地区ユビキタスセンサーの更新予算承認』。三件目は『紙ポイントカード廃止提案』」
俺は思わず手元のカードを見た。
「三件目、却下で」
「理由は?」
「これ、便利だから」
兄貴が呆れたように言う。
「お前な、党ドクトリン署名が必要なんだぞ。適当な理由じゃ通らない」
「じゃあ、『現行制度との親和性が高く、利用者の混乱を避けるため』で」
「……それ、党の定型文そのままだな。いいけど」
任期開始まであと三秒。俺は変電設備の前に立ったまま、ガラケーを操作する。
一件目、承認。学校連絡網の量子乱数ロックは、確かに必要だ。最近、偽装リクエストが増えている。
二件目、承認。センサー更新は俺の仕事にも直結する。
三件目、非承認。理由は兄貴の言った通りに入力。
「署名アルゴリズム、解読済みのやつ使うぞ」
兄貴が淡々と言う。党ドクトリンの暗号は、もう半ば公然と解読されている。俺たちはそれを使って、形式だけ整える。
「頼む」
イヤホンから、微かなノイズ音が聞こえる。兄貴のエージェントが署名処理をしている証だ。
十秒後、ガラケーが震えた。
『閣議決定完了/任期終了/次回任命:未定』
「お疲れさん」
兄貴が言う。俺はポケットにガラケーをしまい、再び紙のポイントカードを取り出した。十五番目のマス目にセンサーをかざす。朱肉のスタンプが、ぽん、と押された。
「なあ、兄貴」
「ん?」
「三件目、本当は賛成だったんじゃないか?」
兄貴は少し黙ってから、笑った。
「まあな。でも、お前がカード好きなの知ってるし」
俺も笑う。変電設備の横を通り過ぎ、次の巡回地点へ向かう。ポーチの中で、紙のカードが軽く揺れていた。
帰り道、ふとガラケーの画面を見ると、学校連絡網の更新通知が届いていた。量子乱数ロックが正式に導入されるらしい。俺の名前で承認された政策が、もう動き始めている。
「健二、お前また連絡網の末端ノードに登録されてるぞ」
「え、マジ?」
「近所の小学校から、『保護者または地域協力者』枠で自動登録されてる。解除する?」
「……いや、いい」
俺は答えた。どうせ五分後には、また誰か別の人間が総理大臣になる。その人が、また別の閣議をする。俺の決定も、誰かの決定も、全部が薄く広がって、この国を回している。
ポーチの中で、紙のカードがまた揺れた。