壁の奥で点滅するウォレット

──平成0x29A年 日時不明

俺の仕事は、誰も見たがらない場所を見ることだ。

第4通信ブロックの地下通路。ここは昔の光ケーブルと、新しい無線中継器が混在している。壁の中を這う配線は、平成エミュの影響で妙にレトロな規格が残っていて、月に一度は点検が必要になる。

「兄貴、今日は何時に上がれそう?」

イヤホンから聞こえる声は、兄の隆だ。享年28、過労死。俺が19の時に逝った。今は俺の近親人格エージェントとして、毎日うるさく付き合ってくれている。

「わかんねえ。この先、また誤配線が見つかったら終電逃すかもな」

「お前、また自腹で泊まる気か? 会社に請求しろって」

俺は返事をせず、壁の点検口を開ける。中から漏れる光が、淡く青白い。

配線の間に、何かが挟まっていた。

紙のカレンダーだ。

古い。めくられたページには、手書きの予定がびっしりと書き込まれている。誰かが、ここに隠したのだろうか。いや、違う。配線工事の時に、誰かの持ち物が紛れ込んだのかもしれない。

「兄貴、これ見てくれ」

俺はカレンダーをスマホのカメラで撮影して、隆に送る。数秒後、兄貴の声が戻ってきた。

「……これ、日付がおかしいぞ。平成って書いてあるけど、元号の数字が消えてる」

「消えてるっていうか、最初から書かれてないんじゃないか?」

俺はカレンダーをもう一度見る。確かに、年の部分だけが空白だ。まるで、時間が宙に浮いているみたいだった。

その時、壁の奥から音がした。

機械音ではない。何かが動いている。

「おい、まさか……」

隆の声が警戒する。俺は懐中電灯を壁の奥に向ける。

そこにいたのは、ロボ清掃員だった。

旧型の、平成初期のデザインをそのまま再現したやつだ。丸い目がこちらを向いている。動作音は静かで、何かを拾い集めているようだった。

「こんなところに清掃員が? おかしいだろ」

「データベースを確認する。……あ、やばい」

隆の声が急に慌てる。

「そのロボ、お前の身分証を誤認してる。お前、今『第0x4A8F3内閣ユニットの内閣総理大臣』になってるぞ」

「は?」

俺は自分のデジタル円ウォレットを開く。画面には見慣れない通知が並んでいた。

『閣議決定リクエスト: 地下通信設備の全面改修について』
『承認期限: 残り3分12秒』

「なんだこれ……」

「お前がそのロボに近づいた時、たぶん身分証の無線認証がバグった。で、システムが『この人は権限者だ』って誤解した」

「解除できねえのか?」

「できるけど、時間がかかる。それより、このリクエスト、承認しといた方がいいかもしれない」

「なんでだよ」

「お前が今いる場所、改修予定地に入ってる。承認しないと、来月から立ち入り禁止になる。お前の仕事、なくなるぞ」

俺は画面を見つめる。

リクエストの内容は、地下通信設備の老朽化対策。予算は組まれているが、承認が降りずに何年も放置されていた案件だった。

「……承認したら、どうなる?」

「工事が始まる。でも、お前の仕事は残る。むしろ、新しい設備の保守が必要になるから、仕事は増える」

俺は迷った。

こんな偶然で、制度が動いていいのか。でも、放置すれば俺の仕事は消える。

ロボ清掃員が、壁の隅に落ちていたインスタントラーメンの景品を拾い上げた。小さなキーホルダーだ。誰かが、ここで食事をしていたのだろう。

俺は、承認ボタンを押した。

画面が一瞬点滅し、通知が消える。

「……終わったな」

隆の声が、少しだけ安堵している。

「兄貴、これでよかったのかな」

「わかんねえよ。でも、お前が選んだんだから、それでいいんじゃないか」

俺は壁を閉じて、懐中電灯を消す。

ロボ清掃員は、静かに通路の奥へ消えていった。

紙のカレンダーだけが、俺の手元に残っている。日付のない、どこにも属さない時間の記録。

俺は、それをポケットに入れた。