八月の残像、砂嵐の向こう側

──平成0x29A年08月31日 00:40

 平成〇x二九A年八月三十一日、零時四十分。
 スマートグラスの右隅に表示される「夏休み終了まで:二十三時間二十分」というカウントダウンが、網膜をチカチカと刺激する。実際には学校なんて数十年前に解体され、学習はすべて脳内へのデータパッチで終わるというのに、社会を覆う「平成エミュレート」のアルゴリズムは、律儀にこの時期の若者に言いようのない焦燥感を植え付けていた。

「……暑いな」
 独り言をこぼすが、返事はない。いつもなら「設定温度下げれば? 兄貴、代謝良すぎなんだよ」と生意気に返してくる妹の陽菜は、今ごろ法定倫理検査の真っ最中だ。代わりに耳の奥で鳴ったのは、無機質な合成音声だった。
『代理エージェント・識別番号A-九九です。現時刻より五分間、第〇x一F二内閣ユニットの内閣総理大臣権限が貴方に割り当てられました。速やかに閣議決定リクエストを処理してください』

 またか、と息を吐く。ディスカウントストア「メガ・ポエム」のバックヤードは、埃とプラスチックの匂いが充満している。足元では、円盤型のロボ清掃員が「ご迷惑をおかけします」と九〇年代風の電子音を鳴らしながら、私のスニーカーを避けていった。

 スマートグラスに「差分断片」が流れ込んでくる。今回のリクエストは、第七物流センターに死蔵されている『インスタントラーメンの景品:金ピカのラ王どんぶり』三万個の廃棄承認、それから『旧式磁気記録媒体・VHSテープの物理破壊プロセス』の実行猶予申請。

 党ドクトリンのアルゴリズムは、前者には「即時廃棄(リサイクル効率優先)」、後者には「非承認(データ維持コスト削減のため破壊実行)」を推奨している。署名パネルが私の視界に浮かび上がる。

「陽菜なら、なんて言うかな」
『代理エージェントには個別の意思決定補助機能はありません。ドクトリンに従い、暗号署名を実行してください』

 味気ない。私は棚の奥に置かれた、この店の商品ではない「私物」に目をやった。それは、前のシフトの誰かが置き忘れたのか、あるいはエミュレートのバグで生成されたのか、ラベルの剥がれた一本のVHSテープだった。側面にマジックで「陽菜・三歳・誕生日」と、掠れた字で書いてある。

 もちろん、本物の陽菜の記録ではない。八十年前のアルゴリズムが、社会の安定のために適当に生成した「偽の過去」の残骸だ。それでも、陽菜の人格エージェントのベースには、こうした断片的な記憶データが組み込まれている。

「……非承認だ」
 私はドクトリンの推奨を無視し、VHSの破壊プロセスを「非承認(一時停止)」にスワイプした。代わりに、どうでもいい金ピカのどんぶりの廃棄を承認する。指先が虚空をなぞると、十六進数の暗号署名が連鎖的に走り、内閣ユニットの意志として確定された。

『署名完了。総理大臣の任期を終了します』

 代理エージェントの声が消えると同時に、バックヤードの照明がパッと明るくなった。システムが「労働効率の最適化」を判断したらしい。私は手元のVHSを手に取り、そっと棚の奥に隠した。画面で見ることはできないけれど、このテープが物理的に存在するだけで、世界が少しだけ本物に見える気がした。

「お疲れ様です、佐々木さん」
 休憩に入ってきた同僚が、自販機で買った「缶コーヒー」のプルタブを小気味よく鳴らす。彼は私のスマートグラスに浮かぶ残時間をチラリと見て、苦笑した。
「八月も終わりっすね。なんか、宿題終わってない時みたいな気分になりません?」
「ああ。……でも、少しだけ時間が延びたよ」

 あと二時間で、陽菜が戻ってくる。検査を終えた彼女はきっと、私のこの無意味な「閣議決定」を笑い飛ばし、それから「でも、ありがと」と、エミュレートされた完璧な笑顔で言うはずだ。
 足元のロボ清掃員が、今度は私の靴の埃を丁寧に吸い取っていった。バックヤードに流れる古いJ-POPのメロディが、八月最後の夜に溶けていく。