夜明けの暗号券
──平成0x29A年 日時不明
俺は今、ビルの三階にある「第0x2A9C4内閣ユニット受付窓口」の前に立っている。午前五時四十分。シャッターはまだ下りたままだ。
俺の仕事は、こういう窓口に暗号券を配る下請けだ。正確には「政策変更リクエスト受理証明用ワンタイムパッド配給員」という。長いので、誰も正式名称で呼ばない。
ポケットからMDケースを取り出す。中には配給リストが入っている。今朝の分は十二ヶ所。この窓口が最後だ。ケースの裏には「SONY」のロゴと、手書きで「安室奈美恵 ベスト」と書いてある。中身は全然違うが、気にしない。
腰のポーチから、亡き姉貴のエージェントを起動する。古いiモード端末だ。画面に「おはよ、寝不足?」と出る。
「まあな」と答える。声には出さない。
姉貴――工藤真帆は、三年前に亡くなった。享年三十二。生前は暗号解読屋だった。俺がこの仕事を選んだのは、姉貴のエージェントが「向いてる」と言ったからだ。
窓口のシャッターが、小さな音を立ててゆっくり開き始める。中から出てきたのは、白衣を着た女性だ。眠そうな目をしている。
「おはようございます。工藤です」
「ああ、配給員さん。お疲れさま」
彼女は受け取り用の端末を差し出す。ThinkPadの古いやつだ。画面には「第0x2A9C4ユニット 本日受理予定:7件」と表示されている。俺はポーチから今日の暗号券――紙のカードだ――を七枚取り出して、彼女に渡す。
「ドクトリン署名、確認しますね」
彼女はカードを一枚ずつ、ThinkPadのスロットに差し込んでいく。画面に緑のチェックマークが並ぶ。
六枚目まで、問題なし。
七枚目。
チェックマークが出ない。代わりに、黄色の三角マークが点滅する。
「……あれ?」
彼女が眉をひそめる。俺も画面を覗き込む。
「署名ハッシュ値:0x4F2A1B……党ドクトリン照合:保留」
iモード端末が震える。姉貴だ。
「ねえ、そのカード、どこで刷った?」
「いつもの印刷所」
「嘘。その署名、アルゴリズム世代が一つ古い」
俺は息を呑む。
「どういうこと?」
「誰かが、昔の鍵で偽造してる。それか……印刷所が在庫使い回してる」
白衣の女性が、困ったような顔で俺を見る。
「これ、受理できないんですけど……どうします?」
俺は七枚目のカードを手に取る。他のカードと見た目は同じだ。触感も同じ。だが、この暗号券だけが「保留」されている。
「すみません、本部に確認します」
俺はそう言って、窓口から離れる。ビルの外に出ると、空が少しだけ白んでいる。
iモード端末を開く。姉貴のエージェントが、何か言いたげに画面の端で点滅している。
「報告する?」
「……わかんない」
「わかんないって、どういうこと」
俺は答えない。代わりに、ポケットの中のMDケースを握りしめる。
配給リストには、今日の十二ヶ所がすべて記されている。だが、どの窓口で「保留」が出たのか、記録する欄はない。
姉貴が生きていたら、どうしただろう。
俺は、そんなことを考えながら、次の配達先へ向かって歩き出す。空の色が、少しずつ変わっていく。