連絡網は、夏のノイズに溶けて

──平成0x29A年08月03日 13:40

平成0x29A年8月3日、13時40分。
第802ノード室の室温は、設定温度の「28度」を忠実に守っているはずだが、サーバーラックが吐き出す熱気のせいで体感はもっと高い。空中ディスプレイに表示されたシステムログは、湿り気を帯びた空気の中でわずかに歪んで見えた。

「ねえ、健一。そろそろ田中さんに電話しなきゃ」

耳の奥で、祖母のキヨの声がした。人格エージェントとしての彼女は、本来なら保守マニュアルの読み上げや、異常検知アルゴリズムの監視を担当しているはずだ。しかし、今の彼女は、僕が手に持っている保守用端末の画面を「連絡網の台紙」だと思い込んでいるらしい。

「ばあちゃん、田中さんはもういないよ。今は作業中なんだ」

「だめよ。私の次は田中さん、その次は佐藤さん。ちゃんと回さないと、夏休みの日程が伝わらないわ。ほら、早く」

昨夜、党ドクトリンのアルゴリズム署名サーバーが一時的に瞬断した影響だ。全エージェントに適用されるはずだった「記憶補助定義ファイル」の更新が不備を起こし、キヨの認識は彼女が生きた古い時代の記憶と、現在の業務データが混線してしまっている。

空中ディスプレイに、緊急の通知がポップアップした。第0xAF12内閣ユニットからの閣議決定だ。誰かが務めている5分間の総理大臣が、この区域の冷却水循環比率を0.02%向上させる署名を行ったらしい。承認コードは暗号化されている。

「キヨ、署名アルゴリズムを解析して。バルブの制御コードを出してくれ」

「あら、お祭りの打ち合わせ? それなら回覧板を回さないと」

キヨが笑う。それと同時に、僕の端末から懐かしい電子音が響いた。16和音のチープな「サンバ・デ・ジャネイロ」の着メロだ。党が『社会安定に最適』と判断してエミュレートし続けている、数百年か前の夏の音。キヨが認識バグを起こした影響で、アラート音が勝手に着メロ設定に書き換わったらしい。

僕は溜息をつき、手動でコマンドを叩き始めた。キヨの補佐なしで暗号を解くのは骨が折れるが、幸いなことに、末期の党ドクトリンのアルゴリズムは半ば公然と解読されている。パターンは決まっているのだ。

数分後、冷却バルブの駆動音がコンクリートの壁に反響した。作業完了の報告書を作成する。端末の「生成AI校正」ボタンをタップすると、僕が書いた走り書きのようなメモが、すぐさま官僚的で無味乾燥な報告文へと変換された。

『人格エージェントの認識齟齬に伴う手動介入。業務への致命的な支障は確認されず。現状を維持しつつ巡回を継続する』

送信ボタンを押すと、空中ディスプレイの端でドット絵のペンギンが会釈をして消えた。これもまた、誰かが決めた「平成」の欠片だ。

「健一、田中さんのお家、留守みたい。どうしましょう」

キヨの声は、どこか楽しげですらあった。更新不備を修正するには、倫理検査官の窓口まで行って、彼女の意識を一度初期化に近い状態までロールバックしなければならない。

「……いいよ、ばあちゃん。次は僕が佐藤さんに伝えておくから。もう休みでいいよ」

「そう? 助かるわ。じゃあ、麦茶でも淹れましょうかね」

存在しない麦茶を求めて、キヨの思考プロセスがバックグラウンドに沈んでいく。僕は歪んだ空中ディスプレイを閉じ、次のノード室へ向かうために重い扉を開けた。

廊下に出ると、どこからか遠いセミの声が聞こえた気がした。それが本物のセミなのか、この都市の遺伝子ネットワークが再現している環境音なのか、僕には区別がつかない。ただ、ぬるい風が僕の頬を撫でて、キヨの鼻歌のようなノイズが鼓膜の端でずっと揺れていた。