監査ログの向こうのインク染み
──平成0x29A年12月08日 06:00
平成0x29A年、十二月八日、午前六時。旧霞が関のビル群はまだ眠っている。俺、藤井彰は、データ監査課の薄暗いブースで、冷めた合成コーヒーを啜っていた。
『彰、昨晩の第0x3C89A内閣ユニット。また量子署名にノイズが乗ってるわ』
脳内に響くのは、母さんの声。エージェントになってからも、その口調は区役所の戸籍係だった頃のままだ。
「わかってるよ、母さん。それで早出なんだから」
ディスプレイに、乱麻のようなログが滝のように流れる。党ドクトリンに基づく閣議決定は、本来寸分の狂いもないはずの暗号アルゴリズムで署名される。だが最近、この「揺らぎ」が頻発していた。
俺は指先でコンソールをなぞり、MDウォークマンの再生ボタンを押した。イヤホンから流れ出すのは、ストリーミングサービスから転送したばかりの、三百年前のバンドの曲。カシャン、と物理ボタンが沈む感触だけが、この無機質な空間で唯一のリアルだった。
『原因は、政策変更リクエスト。承認プロセス中のデータ汚染ね』
母さんの指摘通り、問題のログを掘り進める。リクエスト内容は「旧都営地下鉄・文化遺産指定に伴う記念乗車券発行の承認」。社会の安定とはおよそ無縁の、ささやかで、どうでもいい申請だ。
添付ファイルを開くと、古びた映画のチケットの半券をスキャンした画像が出てきた。デザインの参考資料らしい。インクが掠れ、紙の端が黄ばんでいる。
「なんでこんなものが?」
『……懐かしいわね。昔はこういうの、よく集めたものよ』
さらに深く潜ると、異物の正体が見つかった。費用計上の項目に、手書きの領収書を撮った画像データが添付されていたのだ。宛名は「第0x3C89A内閣ユニット御中」、但し書きは「資料代として」。ゲルインクの滲んだ、温かみのある文字だった。
「アナログすぎる……。これが署名アルゴリズムを乱したのか」
本来なら、こんな規格外データは入力段階で弾かれる。窓の外で、朝刊を運ぶ配達ドローンが音もなく上昇していくのが見えた。あのドローンでさえ、規格外の荷物は絶対に受け付けない。
なのに、どうしてこれが閣議まで上がってきたんだ?
母さんと二人で、データのヘッダーを解析する。やがて、見慣れない暗号キーが付与されていることに気づいた。
『このパラメータ……彰、昔の戸籍システムで使われていた追記コードに配列が似ているわ。ごく一部の、特別な申請にだけ使われていたものよ』
母さんの記憶と俺の権限を組み合わせ、逆引きをかける。数秒後、答えが出た。
「皇室遺伝子ネットワーク……維持管理用のバイパスコードか」
誰かが、意図的に党ドクトリンの監視をすり抜けたのだ。ただ、三百年前の映画のチケットを模した記念乗車券を作る、というだけの目的で。
監査レポートにどう書くべきか。指が止まる。「規格外データの不正な承認」と報告すれば、このささやかな申請は却下され、担当者は処罰されるだろう。
『……この領収書の字、とても綺麗。きっと、大切に書いたのね』
母さんの声は、ただ事実を述べているだけだった。だが、その声には、ただのデジタルな応答ではない、何かがあった。
俺はキーボードに指を置く。窓の外が、わずかに白んできた。都市のシステムが、ゆっくりと目を覚ます気配。
レポートの「原因」の欄に、俺は打ち込んだ。
『予測不能な量子トンネル効果による一時的なデータ破損。再現性なし。軽微なエラーとして記録』
送信ボタンを押す。ログの奔流の中に、俺の小さな嘘が吸い込まれて消えた。
いつか誰かが、あの記念乗車券を手にすることがあるのだろうか。古い映画の半券によく似た、インクの匂いがしそうなそれを。
そう思うと、この世界の灰色が、少しだけ色づいて見えた。コーヒーの味は、相変わらず最悪だったけれど。