現像袋の口を結ぶ
──平成0x29A年06月09日 07:00
平成0x29A年06月09日、朝七時。
処理棟のシャッターを上げると、湿った紙と焦げたプラの匂いが鼻に刺さった。ホログラム掲示が空中に浮かび、「本日の搬入:小型端末/記録媒体/写真関連 分別厳守」と点滅している。点滅の仕方だけは、昔の駅の電光掲示みたいに落ち着かない。
俺は腕章の近傍通信タグをタップして入場ログを通す。ピ、と乾いた音。タグの角が欠けていて、触るたびに指先が少し痛い。
「痛がりな。新しいの申請しろ」
耳元で、父の声がした。
父――真鍋 恒一。享年六十四、梱包ラインの事故で死んだ。俺のエージェントは、朝の点呼みたいに小言から始まる。
「近傍通信タグの差分、先週出した。非承認」
「そりゃ、お前の書き方が甘い」
搬入コンベヤに、段ボールがどんどん流れてくる。ガラケー、割れたタブレット、MDウォークマン、ストリーミング用のサブスクカード――平成が混ざったまま捨てられていく。
箱の底に、写真の現像袋が一枚、ぺたりと貼りついていた。銀色の薬品の匂いがまだ残っていて、指が少ししびれる。
袋の表に、油性ペンで書かれた名前。
『2年3組 連絡網 鈴木→真鍋→田中…』
学校の連絡網だ。今どき紙で回るのが妙に懐かしいのに、捨てられているのが胸に引っかかった。袋の中には、写真じゃなく、薄いフィルム片みたいなチップが入っている。小さな、黒い。
「それ、燃える分類じゃない。情報系だ」
父が言った。
俺は近傍通信タグをチップに近づけた。タグの欠けた角が、フィルム片の端に触れて、静電気みたいにぱち、と鳴る。
その瞬間、視界の端に別のホログラムが割り込んだ。
《任命通知:第0x4A2D1内閣ユニット 内閣総理大臣(暫定) 職務時間:05:00》
「来たな」父が、なぜか嬉しそうに言う。
俺は手袋を外す暇もなく、空中に浮いた三つの差分断片を読む。指先が汚れているのに、画面はきっちり反応する。
一件目:処理棟のタグ更新予算の再配分。
二件目:学校連絡網の回収・再配布を廃棄物処理ルートに統合。
三件目:写真現像薬品の取り扱い基準を、党ドクトリン署名方式に合わせる。
「二件目、変だ」俺が呟く。
「学校の紙が、ここに流れてきた理由だ」
承認のボタンの横に、党の署名欄がある。噂通り、今は半分くらい読めてしまう形で、アルゴリズムの癖が露骨に見える。
父が言う。「どうせ五分だ。迷ってもログに残る」
俺は二件目を開いた。添付のメモが一行だけ。
《連絡網の循環は、最適化されすぎた社会に不必要。だが“回す”という行為は、安定に資する》
意味が分からないのに、なぜか腹が立った。回す、って。人の手で、名前をたどって、次へ渡す。そういう手間が、安定だって?
「お前、昔、連絡網苦手だったろ」
父が笑う。
俺は二件目を“非承認”にした。理由欄に、手袋のまま短く打つ。
《紙は回すためでなく、届くためにある》
残り二件は機械みたいに処理した。五分が終わると、ホログラムは何事もなかったように消える。
コンベヤは止まらない。
俺は現像袋を作業台に置き、袋の口を開けた。中の黒いチップを光に透かすと、表面に細い文字が浮く。近傍通信タグが勝手に読み取りを始め、短い通知が出た。
《送信先:教育ブロック 回収予定:本日》
「廃棄じゃない。回収だ」父が言う。
俺は袋の表の連絡網を、指でなぞった。鈴木、真鍋、田中。俺の苗字が、ちゃんとそこにある。
「……父さん」
言うつもりじゃなかったのに、声が漏れた。
「俺さ。連絡網、回ってくるの待ってるふりして、わざと遅らせたことある」
父が黙った。
「自分の名前がそこにあるの、嫌で。次の家に行くのも、電話するのも、怖くて」
処理棟のホログラム掲示が、また点滅を強めた。分別厳守、分別厳守。
しばらくして父が、いつもの小言より少し柔らかい声で言った。
「だから、お前は今、回収する側にいるんだろ」
俺は現像袋の口を、きつく結んだ。捨てるためじゃなく、届けるために。