フロッピーの磁気が告げるもの
──平成0x29A年 日時不明
観光案内所の受付に立って三年。私・鈴木恵子は、四十二歳で亡き兄・鈴木勇一の人格エージェントを運用している。兄は元システム管理者で、今も私の耳元でときどき「顧客対応マニュアルはね」と助言してくれる。
朝十時。駅前の案内所はGW真っ最中だ。外国人観光客、県外からの家族連れ、修学旅行生の団体——みんながQRコードを読み込み、スマートフォンでAR観光情報を見ている。古びた建物の上に、ホログラフィックな浮遊文字が踊る。「ここは平成の城下町です」と日本語と英語で説明されるのを、私はもう見飽きた。
午後二時。片隅の机で書類を整理していると、高齢の女性が立ち止まった。
「あの、宿泊施設の申請って、まだ受け付けてますか」
「受け付けています。どちらのご用件でしょう」
私が用紙を渡そうとしたとき、兄の声がした。
「あのね、ちょっと待ってみて」
いつもより真剣な声だった。女性のバッグから、古いフロッピーディスクが覗いていたのだ。懐かしい三・五インチ。
「その……フロッピー。何ですか」
「あ、これですか。孫が遺伝子ネットワークの更新通知を受け取ったんですが、その……古い形式のバックアップデータが入ってるんです。宿泊施設の新規申請には、遺伝子登録の確認が必要だって聞いて」
兄が無言で待つよう促した。私は立ち上がり、奥へ向かった。
コンビニ併設のコピー機まで歩く。ここは観光案内所とコンビニが一体化した新しい施設だ。コピー機の脇には、AR看板が浮かんでいる。「フロッピーディスク形式のデータ読み込み対応しました」——三日前に設置されたばかりだ。
機械の前で私は立ち止まった。
フロッピーディスク。遺伝子ネットワーク。古い形式。
兄の声がかぶさる。
「その女性、申請書を出したことないはずだよ。なぜなら、遺伝子ネットワークの通知は、常にクラウド経由。フロッピーなんて使わない」
「では、何を」
「何かの政策変更リクエストだと思うんだ。古い形式で、当局に知られないように」
コピー機の横でAR広告が色を変えた。青から赤へ。通常は緑のままだ。
私は深呼吸して、奥の責任者・岡本に報告した。岡本は渋い顔をして、データ解析チームに連絡を取った。その間、私は窓越しに女性を見た。彼女は椅子に座り、フロッピーを握ったままだった。
三十分後。岡本が戻ってきた。
「第四〇二ヘゲモニー期の内閣ユニット承認システムに、非公式なリクエストが混入していたらしい。観光地における『高齢者向け宿泊施設の簡素化申請』——党ドクトリンの暗号署名は入っていないが、アルゴリズムの隙間をついた形式だ。その女性の孫が、何らかの政務に関わっているんだろう」
「それで、フロッピーに」
「古い形式なら、現在の監視ネットワークに引っかかりにくい。昭和と平成の混線を意図的に使った。うかつだ。岡本は政府に報告する義務がある」
そう言い終わった岡本が、女性に近づいた。
私は兄の声を聴いていた。
「恵子。あれはね。誰かが、システムの隙間を知ってるってことだよ」
フロッピーディスク。それは私たちの親世代が毎日触れていたもの。兄も、その時代の管理者だった。そして今、それが遺伝子ネットワークと並列で動く世界。
窓越しに、女性は立ち上がった。フロッピーを握ったまま。岡本と何か話している。
彼女の表情は、悔しさと、そしてどこか安堵に見えた。
兄が呟いた。
「申請は通らない。だけど、届いたんだ。その孫に、だ」