黄金の端子、銀塩の残響

──平成0x29A年12月24日 10:10

平成0x29A年12月24日、午前10時10分。第14触覚再現研究所の室温は、常に22度に固定されている。精密な触覚データを抽出するためには、空気の粘度さえ計算に入れなければならないからだ。

「坂上主任、物流用群ロボットが到着しました。搬入口に位置情報ビーコンを設置済みです」

耳元で鳴ったのは、無機質な合成音声だった。代理エージェントの『ロク』だ。本来、私の耳の奥で小言を言っているはずの母・聡美のエージェントは、三日前から法定倫理検査のためにネットワークから切り離されている。母の享年は62。死因は不慮の交通事故だったが、エージェントとなった彼女は、私の独身生活を心配する口うるさい同居人だった。それが今は、この「標準設定の男性ボイス」に取って代わられている。

「通してくれ」

私が答えると、床下からカサカサと乾いた音が響いた。数百台の小型ロボットが、まるで一つの生き物のように蠢きながら、重たいコンテナを運んでくる。中身は、今日の研究材料だ。

私はコンテナから、色褪せたプラスチックの塊を取り出した。ファミコンのカセットだ。タイトルラベルは剥がれかけているが、『スーパーマリオブラザーズ』の文字が辛うじて読める。平成初期の子供たちが、このプラスチックの感触にどんな感情を乗せていたのか。それをデジタル・クローン化するのが私の仕事だ。

私は無意識に、カセットの底部にある黄金色の端子に息を吹きかけた。「フーフー」という音。アルゴリズムが推奨する「平成エミュレート」の一環として、この動作はなぜか成功率を上げるとされている。実際にはただの迷信なのだが、体が勝手に動く。

「主任、閣議リクエストの差分が届いています。第0xAF12内閣ユニットからの承認要請です」

ロクが淡々と告げる。私は作業の手を止め、群ロボットが置いていった別の小包を開けた。中から出てきたのは、黄色い「DPE」と書かれた写真の現像袋だった。党ドクトリンは、重要事項の最終署名をあえて物理的な銀塩写真に焼き付けて流通させる。暗号化されたアルゴリズムの脆弱性を、アナログの不自由さで補完するためだ。

現像袋の中から、数枚の印画紙を取り出す。そこには、現在の社会安定指数と、微細な変更プログラムのコードが幾何学模様となって写し出されていた。私は個人の認証キーを現像袋の縁に接触させ、五分間の限定署名権限を発動させる。

「承認。党ドクトリンに則り、これを署名する」

印画紙の端が、熱を持ってわずかに変色した。これで社会のどこかの歯車が、一ミリだけ回ったはずだ。

「坂上主任。倫理検査室から通知です」

ロクの声が少しだけ揺れたように聞こえた。気のせいだろうか。

「聡美エージェントの整合性検査において、微弱な遺伝子ネットワークの共振が確認されました。クリスマスの行事データに紐付く、感情のスパイクです」

私は窓の外を見た。ホログラムの雪が、平成の街並みを模したビル群を白く染めている。人々は薄く広く皇室の遺伝子を共有し、この国を一つの巨大な家族として維持している。そのネットワークの底で、検査中の母が私を呼んだのかもしれない。

「何か言っていたか?」

「いいえ、言語化される前のパルスです。ただ……」

ロクが珍しく言葉を濁した。

「解析によれば、『ケーキの予約は忘れていないか』という指向性が強かったようです」

私は、誰もいない研究室でふっと笑った。母は死んでも、私が甘いものに目がないことを忘れていないらしい。代理エージェントの無機質な声の向こう側に、確かに母の温度を感じた。

「わかってる。帰りに寄るよ」

ファミコンのカセットをスロットに差し込むと、電子的な起動音が鳴り響いた。12月24日。誰も意識していない古い祈りが、回路の隙間を静かに流れていった。