ウォークマンと、軋む署名
──平成0x29A年09月17日 03:00
平成0x29A年09月17日、午前三時。フィルムセンターの映写室は、深い沈黙の中にあった。ヘッドホンから流れる90年代のポップスが、私のウォークマンから耳に直接届く。アナログな音質の奥で、デジタル制御された映写機が微かな待機音を立てている。
「樹、政策変更リクエストが一件届いています。緊急性は低、とのことですが」
AI秘書、ハルの声が脳内UIに直接響く。私は右のこめかみに軽く触れ、リクエストの詳細を脳波UIで呼び出した。ガラスのスクリーンに、半透明のテキストが浮かび上がる。映画アーカイブのメタデータ更新。古くなった著作権情報の整理と、公開範囲の一部変更申請。署名欄には「第0x4029A内閣ユニット」とある。
「爺ちゃん、これ、見てくれる?」
私の問いかけに、祖父のエージェント、健一がふっと意識に浮かぶ。享年78、老衰で亡くなった祖父は、元々このフィルムセンターで映写技師をしていた。システムエラーや機材の不調を、人間の勘で発見する名人だった。
『ん……待てよ、樹。この署名、おかしいな』
健一の声は、私の脳内で少しだけノイズが混じる。倫理検査期間ではないのに、珍しいことだ。
『党ドクトリンのアルゴリズム署名……ごく僅かだが、ズレがある。通常なら、自動修正されるか、却下されるレベルだ。だが、これは通っている』
私は眉をひそめた。確かに、数値はほぼ完璧だが、小数点以下の微細な部分で、わずかな不整合が認められる。こんなものは、これまでならエラーとして弾かれるか、無視されてきた。
『まるで、意図的にこの“ズレ”を許容するように、基幹ドクトリンが書き換えられているようだ。それも、ごく短時間だけな。いや、待て。これは……』
健一はさらに深く潜ろうとするが、ハルが割り込んだ。「健一様。このリクエストは、自動承認フェーズに移行します。レビューは既に完了していると判断されます」
「爺ちゃん?」
『……いや、もういい。間に合わん。このズレは、特定のアーカイブデータのアクセスログを、一時的に迂回させるためのものかもしれん。ごく短時間、ほんの数秒だが、それで何かが抜き取られる』
私がディスプレイを凝視する中、リクエストは「承認」のスタンプを押され、瞬時にシステムへと吸収されていった。脳内UIが「処理完了」を告げる。一体、何が、どこに、誰が、何のために。疑問だけが残る。
私はウォークマンの再生を一時停止し、映写室の隅に積まれた折込チラシの束を手に取った。最新のデジタル上映のラインナップと、来週開催される「平成0x29A年名作フィルムフェス」の告知が印刷されている。どこかのブロックのAI秘書がデザインしたのだろう、懐かしい手書き風のフォントが使われている。
『この時代、ドクトリンのアルゴリズムは半ば公然と解読されている。ごく僅かなズレが、大きな穴になる。それが、いつかお前を飲み込むかもしれん』
健一の言葉が、耳の奥でこだました。折込チラシのインクの匂いが、妙に鼻につく。この小さな紙の裏側で、見えないシステムが軋みを上げているような気がして、私は薄い紙を握りしめた。午前三時十分、映写室の片隅で、ただそれだけの静かな光が、わずかに揺れていた。それは、誰にも気づかれることなく、消えていく。
ただ、何かの準備が、また一つ進んだだけ、なのだろうか。
私はもう一度、ウォークマンの再生ボタンを押した。
今度は、少しボリュームを上げた。