アナログクロック、デジタル時刻

──平成0x29A年 日時不明

私は古い壁掛け時計の針を見つめている。秒針がカチ、カチと音を立てる。その向こう、診療所の待合室には三人の患者が座っていて、スマートフォンの光が彼らの顔を照らしている。時刻は14時17分。

「田中さん、失礼します」

呼び出しは、私の手首に装着したPHSの振動で来た。画面には「エージェント倫理検査予定変更:本日15時30分に前倒し」と表示されている。いや、待て。倫理検査は明後日のはずだ。

私は医師事務員として、この診療所で三年働いている。亡き父・田中勇一郎は、元ビル管理人だった。十年前に脳梗塞で倒れて、その直後から彼の人格エージェントをPHSで運用している。毎朝、PHS越しに「今日も頑張ろう」と父の合成音声が励ましてくれた。それは別人の音だったが、言葉の選び方は、確かに父そのものだった。

診療所のデスクトップパソコンは、Windows98を改装した何か、よく分からないOSで動いている。左奥には古いブラウン管モニター。その脇に、タブレット端末が置いてある。平成と令和と、もっと先の時代が、この一つの部屋の中で重なっている。

「すみません。今、倫理検査の予定変更通知が来たんです」

院長に報告すると、彼はメガネをずり上げて、私を見た。

「あ、それ。朝の全体通知を見た? エージェント検査システムが障害を起こしているらしい。通常は水曜日だが、その日に検査できない人を前倒しする、という通知だったと思う」

通知。私は見ていない。いや、見たはずなのに、脳が処理していないのだ。朝、PHS経由で何か来ていたような気もするし、気がしないような気もする。

その時、壁の時計の秒針が「12」に達して、カチッと音を立てた。

同時に、私のPHSが鳴った。父からのメッセージだ。

「今日の倫理検査について、何か違和感がないか?」

私は手指が冷たくなるのを感じた。

それは父の言葉ではない。少なくとも、父が生前、こんなことを聞くはずがない。父は心配症だったが、メタな質問はしない人だった。

このPHS越しの音声は、本当に父なのか。それとも、誰かが父の人格エージェントに干渉している? それとも、倫理検査を前倒しにする通知そのものが、偽造された何かなのか?

壁の時計は14時18分を指していた。

待合室の患者たちは、相変わらずスマートフォンの光を見つめている。彼らのポケットにも、誰かの人格エージェントが入っているのだろうか。それとも、彼ら自身が、誰かのエージェントなのではないか。

ブラウン管モニターの脇のタブレットに、新しい通知が来た。「エージェント倫理検査 緊急前倒し 本日14時30分」

14時30分。あと12分だ。

そして私は気づいた。壁の時計の秒針が、一度も戻っていないのに、何度も「12」に達している。カチ、カチ、カチ。

それはもう、時刻を刻む音ではなく、何かが、何かを、計測し続ける音に聞こえた。