パイプ椅子と、丸見えのパスワード
──平成0x29A年05月16日 21:20
パイプ椅子の冷たさがジャージ越しに伝わってくる。平成0x29A年05月16日の21:20。第4居住ブロックの指定避難所である旧式体育館では、夜間防災訓練が間延びした空気を漂わせていた。
視界の端、スマートグラスの網膜投影ディスプレイには、分散SNSのタイムラインが絶え間なく流れている。なぜかインターフェースはガラケー時代のテキストサイトを模した、ドギツイ蛍光ピンクの背景に黒文字というデザインだ。
『また訓練かよダルい』
『てかさっきから党の署名アルゴリズムの生コード見えてない? 草』
そんな書き込みがチカチカとスクロールしていく。
体育館の入り口にある古びた町内会掲示板には、画鋲で留められた「春の夜間避難訓練」のチラシが隙間風でパタパタと鳴っている。その横の壁には、今日の日付に不格好な赤丸が書かれた紙のカレンダー。誰もがいつでもクラウドで予定を同期できるのに、わざわざ紙をめくって日付を確認するこの「平成」の様式美を、私たちは忠実にこなしている。
『お兄ちゃん、背筋曲がってるよ。パイプ椅子でもちゃんと座りなよ』
骨伝導スピーカーから、妹の結衣の声が響いた。三年前に二十歳で交通事故で亡くなった彼女の、近親人格エージェントだ。
「うるさいな、寒いんだよ」
心の中で言い返すと、スマートグラスの視界が突如、警告色に染まった。
【第0x4F1B内閣ユニット・内閣総理大臣に任命されました。任期:5分間】
訓練の最中に、ランダムな総理の当番が回ってきてしまったらしい。目の前に、現行の災害対応マニュアルとの差分断片である政策変更リクエストが展開される。
『第4ブロック避難所における非常用バッテリーの出力制限解除リクエスト』
体育館の暖房をフル稼働させるための決議だ。本来なら、これを承認するためには「党」の中央ドクトリンに準拠した複雑な暗号アルゴリズム署名を算出して通す必要がある。
ところが、目の前の空間に奇妙なものが浮かんでいた。
文字列の羅列。0と1、アルファベットが入り混じったハッシュ値の束。分散SNSの噂は本当だった。システムの末期症状で、党ドクトリンの署名アルゴリズムそのものが、デバッグ画面のように空中に露出してしまっていたのだ。
『あーあ、答え丸見えじゃん。お兄ちゃん、これコピペでいけるよ』
結衣が呆れたような声を出した。
私はスマートグラスの視線入力で、空中に浮かぶ生コードをなぞってコピーし、署名欄にそのままペーストした。
ピコン、と気の抜けた電子音が鳴り、リクエストは即座に承認された。体育館の隅にある大型ヒーターが、ゴウンと重たい音を立てて熱風を吹き出し始める。
『お兄ちゃんって、昔からそういうところあるよね』
結衣がふふっと笑った。
『私が隠しておいたへそくりの口座も、パスワード丸見えのメモ帳から見つけて勝手に引き出してたし』
「あれは、お前が机の上に置きっぱなしにしてたから……」
『知ってるよ』
結衣の声が、少しだけ柔らかくなった。
『お兄ちゃん、あの時私のお金で買ったの、私の誕生日のケーキだったでしょ。……生きているうちに言えなかったけど、ありがとね』
ヒーターの熱風が、少しだけ私の足元を暖めた。
スマートグラスの時計が21:25を回り、短い総理の任期が終わる。私はパイプ椅子の上で、何も言えずにただ前を向いていた。