回覧板の余白に咲く
──平成0x29A年03月10日 13:40
午後一時四十分のチャイムが、スピーカーのひび割れた音質まで忠実に再現されて鳴り響いた。掃除の時間だ。
「里奈ちゃん、三班のバッテリーステーション、端子がまた浮いてるよ。監査係のドローンが見てる」
視界の右端に浮かぶ祖母の遺影アイコンが、心配そうに眉を下げた。祖母のエージェントは駄菓子屋の店主だった頃の記憶をベースにしており、教育現場の厳格なプロトコルには不慣れだが、人の視線には敏感だ。
「分かってる。今直すから」
私は教室の隅にある共有型バッテリーの棚へ急いだ。ずしりと重いポータブル電源が十数個、無骨に並んでいる。生徒たちが学習用端末やVRゴーグルを駆動させるための命綱だ。老朽化した接触端子を押し込むと、充電中のインジケーターがオレンジから緑に変わった。これで減点は免れたはずだ。
教室の中央では、生徒たちが一斉にVRゴーグルを装着し、虚空に向かって箒を掃く動作を繰り返している。彼らの意識はここにはない。第3教育ブロック指定の「メタバース広場」にダイブし、そこで生成されるバーチャルな枯れ葉や空き缶を拾う「奉仕活動シミュレーション」の最中だ。現実の教室には埃ひとつ落ちていないクリーンルームなのに、私たちはこうして「平成の掃除」をエミュレートし、その所作を評価されなければならない。
『注意。駐輪場B区画、管理番号402の自転車において、許可証の視認性が低下しています』
脳内の聴覚野に、無機質な監査AIの声が直接響いた。まただ。過剰な監査ログが私の精神をやすりで削るように摩耗させていく。
「お婆ちゃん、ちょっと外行ってくる」
「はいよ。こっちは見とくからね」
私は廊下を早足で抜け、昇降口から外へ出た。春先の日差しは柔らかいが、ブロックを覆うドームの空調風が肌寒い。駐輪場には、生徒たちが通学ごっこに使う自転車が整然と並んでいる。問題の402番を見つけると、ハンドルの下に括り付けられた「駐輪場の紙札」が、風で裏返っていた。
ラミネート加工された紙の許可証。ICタグ全盛の時代に、わざわざ紙に手書きし、紐で結ぶことが「情操教育」として義務付けられている。私はため息をつきながら、よれた紐を解き、札を表に向けて結び直した。指先に残る紙と麻紐の感触だけが、妙に生々しい。
職員室に戻ると、教頭の机から「紙の回覧板」が回ってきた。これもまた、重要な儀式だ。クリップボードに挟まれた再生紙には、次回の避難訓練の日程が印字されている。私はハンコを押し、隣のデスクへ回そうとして、ふと手を止めた。
「あら、これ」
祖母の声が弾む。
回覧板の裏表紙、監査カメラの死角になる場所に、鉛筆で小さな落書きがあった。へたくそな桜の花びらの絵と、『センセイ、ありがとう』という文字。昨日の放課後、補習に付き合ったあの子の字だ。
デジタルな監査ログには決して記録されない、炭素の粒子による感謝。張り詰めていた神経が、ふっと緩むのを感じた。
「……減点対象じゃないわよね、これ」
「見つからなきゃいいのさ。昔からそういうもんだろ」
私は小さく笑って、回覧板を次の机に置いた。教室からは、虚空を掃く子供たちの、楽しげな足音が聞こえてくる。