菊花紋章のスクランブル・エラー

──平成0x29A年06月06日 06:30

平成0x29A年06月06日、午前06時30分。
網膜に直接投影される公共ARサインが、霧の立ち込める新宿駅東口の空に「暴力追放」と「歩きスマホはやめましょう」の文字を交互に明滅させている。まだ眠い。昨夜、分散SNSの「パストドン」で、2000年代初頭の匿名掲示板ログを復元するスレッドを深追いしすぎた報いだ。

「玲一、シャキッとせんか。今日から検疫のプロトコルが更新されているんだぞ」

耳の奥で、親父の声がした。桐生誠、享年六十。元警察官の彼は、死後エージェントとして私の職務を補佐している。先週の法定倫理検査を終えてからというもの、どうも正義感のパラメータが過剰に振れている気がしてならない。

私はデスクに置かれた「写真の現像袋」を引き寄せた。中には、昨日のシフトで不審な動きを見せた男から押収した、旧式のMOディスクが入っている。今どきMOなんて、骨董品屋かアルゴリズム解読屋くらいしか使わない。現像袋の隅には、色褪せたフォントで「DPE・スピード仕上げ」と書かれている。党ドクトリンが推奨する平成エミュレートの徹底ぶりには、時々吐き気がする。

「MOを読み込め、玲一。遺伝子スキャナーを並列起動しろ」

親父の指示に従い、ディスクをドライブに差し込む。カシャリ、という懐かしい金属音がして、読み取りのプロペラが回る音がした。同時に、検問所のゲートを通り抜ける通勤客たちの遺伝子照合が始まった。彼らは皆、iモード風のUIが表示された端末を片手に、死んだ魚のような目でゲートを抜けていく。

異変が起きたのは、十人目のスキャンを終えた時だった。
アラートが鳴り響く。網膜の視界が真っ赤に染まった。

「異常検出。皇室遺伝子ネットワーク、異常発現率:8.42%。想定許容範囲を三桁上回っています」

「なんだって?」
私は椅子から立ち上がった。国民の遺伝子に薄く広く分散されているはずの「高貴な」波形が、目の前の平凡な会社員から過剰に検出されている。しかも、彼だけではない。続く主婦も、学生も、ゲートを通る全員の数値が跳ね上がっている。

「親父、これじゃ全員が……」
「ああ。不敬罪で全員しょっ引くか、全員を玉座に座らせるかの二択だ」

親父の声が乾いた笑いを含んでいる。党の署名アルゴリズムにバグが出たのだ。ドクトリンの差分が限界に達し、システムの「最適化」が、あろうことか全市民の階級を最上位に一斉昇格させてしまったらしい。

その時、視界が白転した。強制割り込み通知が脳を揺らす。
『第0x4029A内閣ユニット、緊急選出。貴殿は今後300秒間、内閣総理大臣を務めます』

「よりによって、こんな時にかよ!」

私は総理権限を行使し、エージェント補佐を通じて党の中央ドクトリンへアクセスした。目の前には、数万件の「政策変更リクエスト」が滝のように流れている。そのほとんどが、この遺伝子異常によるシステムの麻痺をどうにかしろという悲鳴だ。

私は、現像袋の中のMOディスクに視線を落とした。そこには、過去のアルゴリズム崩壊時に使われた「緊急リセット・コード」が隠されているという噂があった。

「親父、どうすればいい」
「決まっているだろう。全員を『様』付けで呼べ。それが今の法だ」

私は苦笑しながら、震える指で承認署名を送った。閣議決定。「全市民を暫定的な皇族待遇とする。それに伴い、すべての治安維持活動を中断し、相互に最敬礼を行うこと」。

五分後、私は総理の座を降りた。ただの検疫官に戻った私の目の前で、検問所のゲートは最大解放され、ARサインは「ようこそ、陛下」という文字で埋め尽くされている。

「玲一、おめでとう」と親父が言った。「今日からこの国は、一億総天皇のパラダイスだ。おかげで俺たちの仕事はなくなったぞ」

私は空になった現像袋を握りつぶした。窓の外では、皇族同士になった市民たちが、互いに深々とお辞儀をし合いながら、遅刻しそうな満員電車へと吸い込まれていく。誰もが尊く、誰もが等しく、ただの平成のサラリーマンとして。その光景は、涙が出るほど滑稽で、少しだけ平和だった。